2019年09月29日公開
2019年09月29日更新
フレディ・マーキュリーは晩年に足を切断?その真相や闘病生活・最後の写真も調査
映画「ボヘミアン・ラプソディー」が爆発的なヒットとなり、世界的に再注目されたフレディ・マーキュリー。エイズに発症し45歳で亡くなった伝説的なシンガーですが、今回はフレディ・マーキュリーの晩年について調査していきます!フレディ・マーキュリーの特徴である長い足をいつ切断したのかという真相や、晩年に撮られた足・闘病生活の写真は残っているのか迫っていきます。足を切断した理由はエイズや壊疽が原因だったのでしょうか…?その謎をたっぷりとお届けしていきます。
目次
フレディ・マーキュリーとは?
フレディ・マーキュリーのプロフィール
世界的ロックバンド「クイーン」のボーカルやピアノを務め、長い足が特徴的なフレディ・マーキュリー。彼の生涯が描かれた映画「ボヘミアン・ラプソディー」も大ヒットとなりましたが、今回はフレディ・マーキュリーの長い足がいつ切断されたのか、さらに壊疽によるものだったのかその真相や晩年の写真をお届けしていきます!それではまずはじめに、フレディ・マーキュリーのプロフィールと長い足について迫っていきます。
- 出生名;Farrokh Bulsara
- 別名:Freddie Mercury(フレディ・マーキュリー)
- 生誕:1946年9月5日 ザンジバルシティ ストーン・タウン
- 出身地:イングランド ロンドン
- 死没:1991年11月24日(45歳没)
- 職業:ミュージシャン、パフォーマー、シンガーソングライター、音楽プロデューサー
- 担当楽器:ボーカル、ピアノ、キーボード、ギター
- 活動期間:1969年~1991年
音楽界の歴史の中で最も偉大なシンガーの1人と称されている、イギリスのロックバンド「クイーン」のボーカルを担当していたフレディ・マーキュリー。「伝説のチャンピオン」「ボヘミアン・ラプソディ」など数々の世界的大ヒット作はフレディ・マーキュリー自身が作詞作曲を行っていて、その才能を活かして音楽プロデューサー、シンガーソングライターとしても活躍していた音楽界に名を遺した伝説的な人物のようです。
またフレディ・マーキュリーは作詞作曲や歌唱の凄さだけではなく、その優れたライブパフォーマンスで多くの観客を惹きつけていたといいます。クイーンと共演した世界的アーティストのデヴィッド・ボウイも、フレディ・マーキュリーのパフォーマンスについて「フレディは破格の存在で、型破りだった」と語っていたようです。また「観客を手の平の中に掴んでしまう事が出来る人物」だという表現で賞賛の言葉を述べていたようです。
フレディ・マーキュリーの生い立ち
当時イギリスの保護国だった、タンザニアのザンジバル島で生まれたフレディ・マーキュリー。フレディは幼少期の大半を父・ボミの故郷であるインドで過ごし、7歳の頃からピアノを習っていたようです。その後8歳でボンベイの全寮制の英国式寄宿学校に通い始めたフレディ・マーキュリーは当時から音楽の才能を活かし幾つかのバンドに所属し、当時の友人からは音楽に関して「異様な能力を持っていた」と評されていたようです。
フレディ・マーキュリーが17歳になった頃「ザンジバル革命」が起こり、家族と共にイングランドのミドルセックス州へ移り住む事に。フレディの両親は使用人として働き、フレディはアイルワース工業学校へ進学し芸術を学んだといいます。その後もフレディ・マーキュリーは芸術とグラフィックを学ぶためにイーリング・アートカレッジに通い、その当時学んだ知識や技術がクイーンの衣装デザインに用いられていたようです。
フレディ・マーキュリーは足が長い?
映画「ボヘミアン・ラプソディー」で再度脚光を浴びることとなった、世界的ボーカリストのフレディ・マーキュリー。当時派手で個性的な衣装を身にまとっていたフレディ・マーキュリーですが、その足の長いスタイルの良さでも有名のようです。フレディ・マーキュリーの身長を調査したところ、身長は177cmとの事で特別身長が高いというわけではなくとにかく足が長いモデルのようなスタイルの持ち主のようです。
足が長い事が特徴的なフレディ・マーキュリーですが、両足がぴたりと閉じる真っすぐな足ということも衣装が映えてスタイルが良く見えるポイントのようです。またフレディ・マーキュリーはステージ上で、ぴったりとして上半身まで繋がっているタイツを着用することも多かったといいます。この上半身まで伸びたタイツのデザインも、よりフレディ・マーキュリーの長い足を強調して綺麗に見せていると言われているようです。
「ボヘミアン・ラプソディ」で有名に
2018年に公開されたイギリス・アメリカ製作の映画「ボヘミアン・ラプソディー」は、「クイーン」の伝説的ボーカルだったフレディ・マーキュリーに焦点を当てた伝記映画です。「クイーン」の結成から1985年に行われた「ライヴエイド」までを描いていて、フレディ・マーキュリー役を務めたラミ・マレックやクイーンのメンバー役によるライブパフォーマンスの再現度の高さも評価されていて本作の見所となっているようです。
「フレディ・マーキュリーが生き返ったかのよう」という感想も多いほど、高い評価を得た映画「ボヘミアン・ラプソディー」。一度だけではなく数回映画館に足を運ぶファンも多く、日本国内だけでも興行収入130億を突破する大ヒットとなりました。当時からクイーンのファンだったという方はもちろん、映画でフレディ・マーキュリーを知ったという方も惹きつけて世界的に再注目されることとなったようです。
フレディ・マーキュリーは晩年に足を切断?
ここまで「ボヘミアン・ラプソディー」で再度注目を集めた、フレディ・マーキュリーのプロフィールと長い足について迫っていきました!長い真っすぐな足で抜群なスタイルを持つフレディは、タイツだけではなく様々な衣装を着こなすことでも有名だったようです。それではここから、晩年にその長い足を切断した真相について迫っていきます。フレディ・マーキュリーが長い足を切断した理由はエイズや壊疽だったのでしょうか?
晩年に足を切断したという噂の理由
1987年4月の後半にはエイズの感染を認識していたというフレディは、自身の病について告白したのは元妻だったメアリー・オースティンのみだったといいます。ブライアン・メイは1993年のインタビューで、クイーンのメンバーが彼の病について正式に知ったのは死の直前だったと語っています。メンバーは放射線治療を受けていた事も知っていたものの、長い間フレディから足の症状や病状について語られなかったようです。
そしてフレディの足切断について噂になったのは、ブライアン・メイが語った2011年にイギリスBCCで放送されたドキュメンタリー番組がきっかけだったそうです。クイーンに関するドキュメンタリー番組でブライアン・メイは「フレディと食事に行った際に彼が自身の足を見せてくれた」と語り、その際に「フレディの足は切断されて殆どなかった」と告白したことにより瞬く間に“フレディの足切断”に関する噂が広まったようです。
足を切断した理由は壊疽
ブライアン・メイによるショッキングな告白により、足切断という噂が広まった晩年のフレディ。ではなぜフレディ・マーキュリーは、彼の特徴でもあった長い足を切断せざるを得なかったのでしょうか?フレディの長い足を切断した理由について調査したところ、壊疽(えそ)が原因だったのではないかと言われているようです。壊疽とは人体の一部分の組織が腐敗して、死んだ状態であることを指します。
特徴的だった真っすぐで長い足を壊疽が原因で、切断せざるを得なくなったというフレディ・マーキュリー。1986年10月にロンドンハーレー街の診療所で、フレディがHIVの血液検査を受けたことがマスコミにより明らかになっています。その時からエイズにより体の免疫力が低下し続けていたフレディは、症状の進行と共に足から壊疽が進んでいったため切断せざるを得なかったのではないかと言われているようです。
HIVに感染して足を切断した人も
現在は医学の進歩により、死に至ることもなくなってきたという「後天性免疫不全症候群(エイズ)」。フレディが発症した当時や近年まで“不治の病”とされていたエイズは、免疫細胞を破壊して免疫不全を起こして死に至る病気です。エイズ感染者の中には免疫力がなくなることにより細胞組織が腐敗し壊疽が進むため、フレディ・マーキュリーだけではなくその壊疽が原因で足切断の選択を受け入れなければならないこともあるようです。
足を切断した時期はいつ?
体の免疫力低下が原因で壊疽したことにより、足を切断したというフレディ・マーキュリー。それではフレディ・マーキュリーが魅力的だった長い足を切断した時期は、エイズと診断された1987年から亡くなった1991年までの間のいつなのでしょうか?今回彼が壊疽により足をいつ切断したのか調査したところ、「晩年ではないか」という情報しかなくはっきりとした年月はメンバーや関係者にも明かされていないようです。
晩年の足の写真はある?
エイズに発症したことにより、壊疽で足を切断したというフレディ。それでは彼の晩年に撮影された、写真や映像は残っているのでしょうか?今回壊疽による足切断された後に撮影されたフレディの写真があるのか調査したところ、そのような写真や映像は一切残されていないようです。これまでイギリスのロックスターとして駆け上がってきたフレディは、自身の病気に侵された姿を写真に残したくなかったとも考えられているようです。
フレディ・マーキュリーの闘病生活や最後の写真
ここまで長い足が魅力的だったフレディ・マーキュリーが、晩年足を切断した理由やいつ切断したのかについて迫っていきました!いつか時期は不明確のようですが、フレディはエイズによる壊疽が原因で長い足を切断することとなったようです。それではここからフレディ・マーキュリーの闘病生活や、最後の写真を紹介していきます。45歳という若さで亡くなったフレディは、いつどのような最後を迎えたのでしょうか?
闘病生活①スイスのモントルー
フレディ・マーキュリーは晩年、スイスの高級リゾート地として知られるモントルーで過ごしていたといいます。クルージングなどを楽しむ人も多いというレマン湖を望める場所に暮らしていて、このレマン湖を窓越しに眺めながら最後の楽曲制作を行っていたとも言われているようです。そしてこのレマン湖には“フレディ・マーキュリーが晩年過ごした場所”ということで、右手を高々と上げたフレディ像が立っているようです。
闘病生活②最後のステージ
生前数々のステージに立ってきたフレディですが、最後のステージとなったのはいつなのでしょうか?フレディの最後のステージは一般的に「マジック・ツアー」と認識されているようですが、正確にはドミニオン劇場で1990年2月18日に行われた“ブリット・アワード”授賞式が生前最後のステージとなったようです。このステージに立つ以前から、極端に痩せたフレディの外見などから病気やエイズの噂は囁かれていたようです。
闘病生活③最後のクリスマス
フレディ・マーキュリーにとって最後のクリスマスがいつなのかというと、1991年11月24日に亡くなっているため1990年のクリスマスが最後ということになります。ではフレディ・マーキュリーがどのようなクリスマスを過ごしたのかというと、1990年のクリスマスに撮影された動画が残っているようです。その映像には元妻のメアリー・オースティンの息子をぬいぐるみであやすフレディの姿が映っているようです。
闘病生活④最後のアルバム
フレディ・マーキュリー最後のアルバムは、本当はクリスマスにリリースするはずだったという「innuendo(イニュエンドウ)」というタイトルの作品です。“風刺”や“暗示”という意味を持つという「innuendo」という言葉は、生前のフレディがよく口にしていた言葉でもあるようです。体調が悪かったためレコーディングが予定通り進まず、クリスマスのリリース予定が1991年2月5日まで延期となったようです。
闘病生活⑤最後の写真はジム・ハットンが撮影
フレディ・マーキュリーの最後の恋人と言われているジム・ハットンは、晩年フレディが亡くなるまでの7年間共に生活を送った人物でもあるようです。そしてフレディの闘病生活中にジムが撮影されたと思われる、庭で佇む力ないフレディの写真が残されています。実は最後の恋人であるジムもフレディから感染したと思われるエイズに感染していましたが、最後まで彼を思って本人に口外せず2010年1月1日に癌で死去したといいます。
闘病生活⑥ポール・プレンターの死
1977年からフレディ・マーキュリーのマネージャーを務めていたというポール・プレンターは、単に仕事関係の付き合いだけではなく愛人関係だったといいます。当時マネージャーとしての責務を全うしていなかったことからクイーンのメンバーからポール・プレンターは否定的な目で見られていて、その上情報を売って金銭を得ていたことが明るみとなり1986年にフレディ・マーキュリーから解雇を告げられたのでした。
愛人関係にあったフレディ・マーキュリーとポール・プレンターは肉体関係も持っていて、彼も同じくエイズに感染していたのでした。数百人の男性と肉体関係があったというフレディから感染したのか、それともポールからフレディに感染したのか、いつ感染したのかは謎に包まれたままです。しかしポールもフレディと同じ年に他界しており、フレディが死去する3か月前にあたる1991年8月に他界したといいます。
闘病生活⑦最後の誕生日
1946年9月5日生まれで、僅か45歳にして亡くなったフレディ。彼にとって最後の誕生日がいつかというと、亡くなる約2か月前にあたる1991年の誕生日になります。実はこのフレディにとって最後の誕生日である1991年9月5日に、米国でシングルがリリースされたのでした。フレディ・マーキュリーは闘病生活中も音楽活動をやめることはなく、最後の最後までミュージシャンとして制作活動をやめることはなかったようです。
闘病生活⑧最後のシングル
フレディ・マーキュリー最後の誕生日にあたる、1991年9月5日に全米でリリースされた「These Are the Days of Our Lives」。最後のアルバムとなった「innuendo」からのシングルで、生前最後の作品となったこちらのシングルはミュージックビデオも制作されています。フレディ・マーキュリーは闘病中とは感じさせないの姿で歌っており、ミュージックビデオ撮影が困難だったという事も感じさせない映像となっているようです。
闘病生活⑨ディナーパーティー
生前頻繁に自宅でイベントを開催していたというフレディは、世界的スターで交友のあるエルトン・ジョンやロッド・スチュワートを招いてディナーパーティをしていた事もあったようです。当時から仲間や恋人との時間をいつも大切にしてきたというフレディは亡くなる2週間前にスイスからロンドンに帰国し、その際エルトン・ジョンもお見舞いに来たといいます。その時はフレディも起き上がり、楽しい時間を過ごしたようです。
闘病生活⑩エイズであることを公表
亡くなる1年前にあたる1990年11月にやつれたフレディの写真が掲載され、イギリス中で病気という噂が広まったといいます。1991年4月29日にも痩せたフレディの写真が掲載されますが、その度フレディ本人や友人たちは病気ということを否定していたといいます。その後もフレディからエイズだという公表はなく、ブライアン・メイもインタビューで「正式に彼の病を知ったのは死の直前だった」と証言しているようです。
闘病生活⑪11月24日の夜
フレディ・マーキュリーは1991年11月24日の夜、ロンドンにあるケンジントンの自宅で僅か45歳にして死去しました。死因はエイズによる、免疫不全に伴う気管支肺炎だったといいます。11月25日の午前までにフレディの死が報じられ、世界中が悲しみに包まれたようです。フレディの最期を看取ったのは彼の元妻であるメアリー・オースティンで、遺骨の場所もフレディの遺言によりメアリーのみが知る場所に埋葬されているそうです。
フレディ・マーキュリーの遺産相続
これまでフレディ・マーキュリーの闘病生活や、晩年の写真について紹介していきました!壊疽により足を失った際の写真は残っていないようですが、晩年共に過ごしたジムやメアリーとの写真は残されているようです。それではここからフレディ・マーキュリーの遺産相続について紹介していきます。膨大な遺産を遺したというフレディ・マーキュリーですが、その遺産は一体誰に渡ったのでしょうか?
遺産相続①総額
伝説的な生涯を送ったフレディ・マーキュリーの死がさらにクイーンの人気を高めたと言われ、アメリカでは彼の死後にアルバム販売数が爆発的に増加したといいます。これまでクイーンは世界中で3億枚売り上げたとされていて、これまでの音楽史に影響を与えたバンドとしても知られています。そんなフレディ・マーキュリーが遺した遺産総額はおよそ日本円で50億円と言われ、一部記事ではそれ以上ともいわれているようです。
遺産相続②ガーデンロッジの自宅
50億もの遺産を遺したと言われるフレディ・マーキュリーですが、その遺産はどのように分配されたのでしょうか?気になる遺産相続問題ですがフレディ・マーキュリーの遺言により、遺産のほとんどを元恋人であるメアリー・オースティンが受け取ったといいます。さらにメアリー・オースティンはフレディが住んでいたガーデンロッジの自宅も相続し、現在も息子二人と一緒にそこで平穏に暮らしているようです。
メアリー・オースティンが受け取った遺産に比べ、“最後の恋人”と言われたジム・ハットンに残された遺産はおよそ7000万円と別荘だったようです。このことからもフレディが最期まで信頼し、いつも心から想っていた人はメアリー・オースティンだったのではないかとも言われているようです。
遺産相続③印税
イギリスで史上最も売れたアルバムであるクイーンの「グレイテスト・ヒッツ」や、「ボヘミアン・ラプソディ」「伝説のチャンピオン」では作詞作曲をしたことからも多額の印税があると思われるフレディ・マーキュリー。その印税に関してもフレディは「メアリー・オースティンに印税を」という遺言を残していたといいます。そしてメアリー・オースティンは現在も、印税を受け取っていて優雅な生活を送っているようです。
フレディ・マーキュリーの元恋人はメアリー?
ここまでフレディ・マーキュリーの、遺産相続について紹介していきました!壊疽による足切断や過酷な闘病生活を看取ったメアリーやジムに遺産が遺されたようですが、そのほとんどを遺言により元恋人のメアリーが相続したようです。それではここからフレディ・マーキュリーの元恋人・嫁である、メアリー・オースティンについて紹介していきます。写真などでもいつも笑顔が絶えない2人は、どのような関係だったのでしょうか?
元恋人はメアリー・オースティン
「Biba」という洋服店店員だったメアリー・オースティンは、そこの客として訪ねてきたフレディ・マーキュリーと出会ったシーンは映画「ボヘミアン・ラプソディー」でも描かれています。交際することなった2人は同棲生活をしていましたが、1976年にフレディがセクシャリティについてカミングアウトしたことにより2人の関係は破局。しかしその後もフレディはメアリーを信頼できる“親友”として、付き合いを続けていたのでした。
元恋人のメアリー・オースティンの現在
フレディ・マーキュリーと破局した後結婚し、写真のように2人の息子を授かったメアリー・オースティン。1人目の息子が誕生した時は未だフレディも生きており、自分の息子のようにいつも可愛がっていたといいます。そしてメアリー・オースティンは前の夫とは離婚していて、フレディ・マーキュリーが遺した豪邸で息子たち2人と現在一緒に住んでいて独身生活を送っているようです。
メアリー・オースティンの元カレ
メアリー・オースティンが洋服店「Biba」で働いており、フレディと初めて出会ったころ彼は別の店員を口説いていたといいます。さらに当時19歳だったというメアリーは、後の恋人となるフレディと同じバンド「クイーン」のギタリストであるブライアン・メイと交際していたそうです。デートをして交際に至ったという2人ですが、わずか5カ月で破局したといいます。
メアリー・オースティンだけが埋葬地を知っている?
フレディ・マーキュリーが亡くなった時、最後に看取った人物と言われているメアリー・オースティン。2人は最後まで親友であり、強い信頼関係にあったと言われています。遺産のほとんどをメアリーに残したフレディですが、さらに自身の遺骨の埋葬もメアリーに託したと言います。現在もメアリーがいつどこに埋葬したのかは明らかになっておらず、彼女自身も生涯語るつもりはないと言っているようです。
フレディ・マーキュリーのトリビア
ここまでフレディ・マーキュリーの元恋人で遺産のほとんどを相続したと言われる、メアリー・オースティンについて紹介していきました。“フレディが生涯愛した人”と言われるほどメアリーとフレディはいつも固い絆で結ばれていたようです。それではここからフレディのトリビアを紹介していきます!フレディにはどのような意外な一面があるのでしょうか?
トリビア①歌声
人々を魅了してやまない、フレディ・マーキュリーの驚異的な歌声。“なぜフレディは凄い歌声なのか”という事が、2016年に科学的に明らかになったようです。通常ヴィブラートの周波数は「5.4~6.9ヘルツ」なのに対し、研究者によるとフレディの周波数が「7.04ヘルツ」だと明らかになったようです。この数値は“世紀のテノール歌手”と言われるルチアーノ・パヴァロッティを超える驚異的な数値だったそうです。
トリビア②猫好き
出典: http://amass.jp
フレディ・マーキュリーは大の猫好きで、彼の自宅であるガーデン・ロッジでは6匹の猫を飼っていたといいます。さらにツアーで海外へ行って家を留守にしている間も、猫と話すために電話をかけていたというほど家族同然に猫を愛していたようです。映画「ボヘミアン・ラプソディ」のツアーシーンでも、メアリーに電話で猫の無事を聞いているシーンは、この猫好きという事を表しているシーンのようです。
トリビア③親日家
1975年にクイーンメンバーとして初めて来日して以来、日本の歴史や文化に興味を持っていたという親日家のフレディ。歴史建造物を観光で訪れたり、伊万里焼のコレクターとしてお忍びで来日した事もあったようです。また着物にも強い興味を持ちコンサートの衣装としても着物を着たり、自宅でいつも着物を着て過ごしていたというほど気に入っていたようです。
トリビア④ダイアナ妃との交友関係
様々な交友関係があったフレディですが、ダイアナ妃とも親友関係という間柄だったといいます。元々ロックが大好きだったというダイアナ妃は王室に嫁ぐ前からフレディとは交流があり、お忍びで夜間一緒に出かけた事もあったそうです。バレたら事件になることを心配したフレディが、ダイアナ妃を変装させて連れ出す…という映画のワンシーンのような出来事が実際にあったようです。
フレディ・マーキュリーに関する感想や評価
感想①壊疽が原因で足を切断していたとはショッキング…
フレディがまさか足を切断してたとは知らなかった。病気の影響で壊死が進んでたとか…つらすぎ。
— *.もな♪*. (@monaOh_329) December 13, 2018
エイズによる免疫力低下で壊疽が進み、その影響で足を切断したと言われているフレディ・マーキュリー。晩年の写真や動画が少ないため、足を切断したという事も知らなかったという方も多いようです。そのフレディの足について「病気の影響で切断とか辛すぎる」という感想や、「あの綺麗で長い足を切らなければならないって悲しすぎる」という感想が多く上がっていました。
感想②晩年闘病生活で辛かっただろうけど穏やかなひと時だったのでは
フレディとフィービーさん。
— みぃ👑 (@flyingfluffy39) September 27, 2019
フレディの晩年は、通風で足首が痛かったフィービーさんと2人ガーデンロッジの庭で椅子に座りゆっくりとした時間を過ごした日もあったみたい
フレディ自ら大きな肘掛け椅子と飲み物、雑誌を用意したって
もう身体は辛かったみたいだけど…穏やかなひと時だったんだろうな pic.twitter.com/oQvMxoqgCB
晩年はスイスで闘病生活を過ごし、亡くなる2週間前にロンドンへ戻ったというフレディ・マーキュリー。その晩年の月日を“最後の恋人”と言われるジム・ハットンと共に過ごしていたといいます。そんなフレディに対して「闘病生活は辛かったと思うけど穏やかなひと時だったんだろうな」という感想や、「好きな人と過ごしていたフレディは幸せだったと思う」という感想が寄せられていました。
感想③彼の命は音楽で、音楽は彼の命そのもの!
80年代中頃のフレディの歌声は少しかすれていて、だけどそのかすれた声が切なくて愛おしくて。そして晩年の彼の歌声は、明らかに線が細くなっていて、それなのにとても力強さを感じるの。ほんと泣きたくなるくらい愛おしい歌声。
— すいせい (@1207KillerQueen) February 26, 2019
彼の命は音楽で、音楽は彼の命そのもの。彼の歌声を聴く度にそう思う。 pic.twitter.com/eWKXrl56JC
闘病生活中や亡くなる数ヶ月前まで、ずっと音楽制作を続けていたというフレディ・マーキュリー。晩年になるにつれて少しずつ声の力強さに変化があるようですが、それさえも「泣きたくなるくらい愛おしい歌声」などと評されているようです。これまで様々な名曲を生み出したフレディーの命は音楽であり、彼にとって音楽という存在は人生で欠かせないものだと言われているようです。
フレディ・マーキュリーの晩年や足についてまとめ
今回は世界的大ヒットを収めた映画「ボヘミアン・ラプソディー」で再度注目されることとなった、フレディ・マーキュリーの晩年や壊疽によって切断したとされる足について迫っていきました!壊疽によって足を切断したのか、写真や映像が残っていないためいつなのかは明らかになっていないようです。また晩年の写真は“最後の恋人”である、ジム・ハットンとの写真が多く残っているようです。
死の最後までクイーンのメンバーにも語られなかったという、フレディ・マーキュリーの病。当時は不治の病として知られていたエイズを発症しながらも、最後まで音楽制作を続けてアーティストとしての幕を下ろしたようです。そのフレディの壮絶な人生や人々を魅了したライブパフォーマンスが描かれた「ボヘミアン・ラプソディー」を、興味がある方はぜひ一度視聴してみてはいかがでしょうか?