2018年08月04日公開
2018年08月04日更新
仁義なき戦いのモデルになった人とは?元になった男や組織を写真で紹介
1973年に公開された『仁義なき戦い』。実際に起きたヤクザの抗争をモデルに映像化したこの映画は大ヒットし、その後『仁義なき戦い』シリーズとして5作品が発表されました。日本で初の本格的なノンフィクション映画でもあるこの作品は、現実の極道の世界が注目されるきっかけにもなりました。今回はそんな『仁義なき戦い』を取り上げ、登場人物のモデルになった構成員たちに焦点を当てます。
目次
仁義なき戦いにはモデルがいた?元になった登場人物や組織を写真付きで紹介
1973年公開の映画『仁義なき戦い』。菅原文太を主役に迎え、脇を松方弘樹、梅宮辰夫といった豪華キャストで固めたヤクザ映画です。役者たちの見事な侠客っぷりと強烈で斬新なシーンの数々で日本の映画界を席巻し、以後『仁義なき戦い』シリーズとして全5作が発表されました。
実はこの『仁義なき戦い』の大ヒットはキャストと映像だけが理由ではありません。この映画は同タイトルの小説『仁義なき戦い』が原作となっているのですが、この小説自体が非常に衝撃的で完成度の高いノンフィクション小説だったのです。
小説『仁義なき戦い』は、当時網走刑務所に服役中だった山村組の美能幸三が書き上げた手記に、記者の飯干晃一が解説を加えて連載されたものです。世間に出た自身のでたらめなスクープに怒りで身を振るわせた美能幸三自身が、それを正すために7年かけて書いた手記であったため、作中の抗争の描写や構成員同士の会話は生々しさ以上に、読者の心に訴える力がありました。
そしてこの小説を元に制作された映画『仁義なき戦い』もまた、美能幸三の怒りが乗り移ったかのように真に迫った出来上がりになりました。特に主演の菅原文太は、まるでモデルの美能幸三自身であるかのように、哀愁と怒りに満ちた演技を見せました。かっこいいヤクザ、いわゆる任侠ヒーローものが主流だった当時の日本映画において、本当のヤクザの抗争をモデルとした『仁義なき戦い』は人々の心に強烈な印象を残したのです。
今回はそんな映画『仁義なき戦い』を筆頭に『仁義なき戦い』シリーズを取り上げます。このシリーズのモデルとなった実際の組織の抗争、また登場人物たちのモデルになった構成員を写真つきで詳しく解説、ご紹介します。
なお『仁義なき戦い』シリーズは映画の性質上、登場人部たちによる暴力シーンや反社会的行動を含みます。この映画の解説記事でもその点を取り上げますのでご了承ください。
仁義なき戦いとは?
後に日本ヤクザ映画の金字塔となる映画『仁義なき戦い』は山村組幹部であった美能幸三の手記を原作としています。美能幸三が書き記したものは広島抗争と呼ばれるヤクザの抗争のいきさつでした。この抗争は戦後すぐから1970年代まで続き、『仁義なき戦い』シリーズの全5作品はこの長い争いをモデルに制作されています。
1973年に公開された『仁義なき戦い』ですが、現在も「チャララ~♪」から始まる印象的なテーマ曲がバラエティ番組等でも頻繁に使われ、劇中のシーンは様々な作品でパロディとして登場します。しかしヤクザ映画が下火になった今、『仁義なき戦い』を実際に観たことがある人は多くありません。それに伴い、この映画がどれだけモデルとなった抗争を忠実に描いているかも忘れ去られるようになりました。
映画公開当時、日本は高度経済成長の終わりに差し掛かる頃であり、儲け主義で引き起こされた公害・環境汚染の深刻さに人々が気づき始めた頃でもありました。戦後の貧しかった日本の経済を牽引してきたのは紛れもないヤクザであり、彼らがシマ(縄張り)を定めてフリーの地上げ屋やポン引きを取り締まることで成り立つ地域も数多く存在していました。70年代の中高年は若い頃にそんなヤクザたちを目にしていた世代でした。
現代よりずっとヤクザが身近だった当時は、もちろんヤクザの義理人情に助けられた人も居たでしょうが、それ以上に彼らの暴力と支配に苦しめられた人々のほうが圧倒的に多かった時代でした。そのためヤクザの格好良さを描く任侠ヒーローものの映画は次第に陳腐とされ、反社会的組織を問題視する風潮が高まってきていました。景気がいいときは誰も気にしなくとも、景気が傾き始めるとヤクザの実態に人々の目が行き始めたのです。
そのとき封切りされた映画が『仁義なき戦い』でした。人気シリーズ『日本侠客伝』のように義理堅く男気にあふれるヤクザは、この映画には誰一人登場しません。そこで描かれたのは実際の構成員たちをモデルにした登場人物たちが、互いを裏切りあい、殺して殺される、まさに血みどろの抗争でした。『仁義なき戦い』を通し、「現実のヤクザ」という存在に人々は一気にひきつけられることになりました。
仁義なき戦いのモデル・作者の人物ついて
映画『仁義なき戦い』では実際の抗争をモデルにした都合上、限られた時間の中でいくつもの組織が登場し、登場人物もそれなりの数に上ります。加えて、組織の壊滅や登場人物の死亡も頻繁に起こり、一度観ただけでは中々把握が難しい部分もあります。ここでは、まず『仁義なき戦い』のモデルとなった抗争と原作を解説し、組織の抗争全体をご紹介します。
手記を書いた美能幸三
前述のとおり、『仁義なき戦い』は同題の小説を原作としており、その原作小説は美能幸三の手記をベースにしています。手記を書いた美能幸三は山村組の幹部でした。彼は獄中で広島抗争に関する記事を読み、その原因が自分であること、自分が無理やり山村組に入ったことなど、事実とはかけ離れた描写に激怒してこの手記を書き始めました。
上の写真は美能幸三の実際の写真です。美能幸三は網走刑務所で服役中7年をかけて手記を書き上げ、出所後はヤクザを引退しました。手記はあくまでも個人の名誉の回復のために書いたものであり、彼自身にはもう裏社会でやっていく気持ちはなかったのです。
美能幸三の手記はすぐに記者の目に留まりました。美能幸三は広島抗争渦中の山守組幹部であり、手記は彼が悔しさと怒りをこめて書いた渾身の訴えでした。ゲラを読んだ飯干晃一はその鬼気迫る描写に驚いたといいます。「週刊サンケイ」はこれを連載作品として掲載することを決め、同時に映像化の計画も進めました。
出典: http://516.jp
ただし「週刊サンケイ」は美能幸三の手記をそのまま載せることはしませんでした。彼を発見した飯干晃一に解説を書かせ、ドキュメンタリー記事として連載させたのです。これは『仁義なき戦い』は大きな批判や問題に晒されることになった際、責任を美能幸三に負わせるためでした。「週刊サンケイ」は美能幸三と直接繋がりがあることをいつでも否定できるよう入念に準備していたのです。
美能幸三と笠原和夫
美能幸三が手記を書き上げたあと、彼の知らないところで映画業界は慌しく動いていました。『仁義なき戦い』は必ずヒットすると睨んだ東映の岡田茂は、なんとしても最高のクオリティでこの映画を世に出そうとしたのです。上の写真の右が岡田茂です。
岡田茂の東映は当時任侠ヒーローものを多く手がけていました。しかし上で述べたとおり、任侠ヒーローは既にマンネリ化、人気低迷の一途をたどっています。岡田としてはなんとしても「新しいヤクザ映画」を作り出さなければなりませんでした。そこで、実際の抗争をモデルとした『仁義なき戦い』で一気に方針を転換しようと考えたのです。
岡田茂の檄をきっかけに恐ろしい世界に飛び込むことになったのが脚本家の笠原和夫でした。それまで『日本侠客伝』シリーズで格好いいヤクザを描いていた笠原でしたが、岡田の一言で呉市の美能幸三と会わねばいけなくなりました。美能は既に『仁義なき戦い』という題名でサンケイと揉めており、同じタイトルの映画の、それも脚本家である自分が会ったらどうなるかと、笠原は気が重かったと振り返っています。
笠原の不安は的中しました。出所したばかりの美能は未だに現役時代の殺気を身にまとっており、映画の話を出した瞬間に怒鳴り散らしたのです。笠原は悲鳴を上げる間もなくその場から逃げましたが、美能は律儀にも追いかけてきて「せっかくこんなとこまで来たんだ。駅まで送ってやる」と言ってきました。笠原は断れるわけもなく、道すがら身の上話などしていると、笠原と美能は海軍の同じ海兵団に居たことがわかりました。
美能幸三は笠原を大いに気に入り、結局自宅に呼んで歓迎しました。そこで「絶対に映画化しないって約束できるなら話してやる…」と言って、手記には書かれなかったさらに詳細な組織の実情を笠原に話しました。笠原は「絶対に映画には使いません」と笑顔で答えましたが帰宅したあとはさっそくそれを元に脚本を書きました。映画『仁義なき戦い』があそこまで真に迫っているのはこのような事情があったのです。
仁義なき戦いのモデルとなった登場人物とは?
映画『仁義なき戦い』の登場人物たちは全て実在するヤクザがモデルとなっています。ここでは、誰がどの登場人物のモデルになっているのかご紹介します。モデルとなった人物の写真と実際に演じた役者の写真の両方を掲載するので、映画鑑賞時の参考にご覧ください。また、シリーズ中の登場人物は膨大な数に及ぶため、ここでは第一作目『仁義なき戦い』のみに絞って紹介します。
仁義なき戦いのモデルになった登場人物①美能幸三
ここまでの項目でも取り上げた美能幸三。彼は『仁義なき戦い』の原作者であり、映画の主役のモデルとなっています。映画『仁義なき戦い』の主役名・広能昌三は美能幸三をもじった名前です。美能幸三は山村組幹部として山村組に忠義を尽くしていましたが、親分を守るために逮捕された彼がようやく出所できた頃、もはや組織は彼の知る山村組ではありませんでした。
広島抗争では山村親分と独立を考える佐々木の仲を取り持とうとして失敗。美能は破門され、山村組から打越組に転身しました。しかし抗争激化の最中に逮捕され、以後は網走刑務所で手記をしたためました。
美能幸三を演じたのは菅原文太でした。当初オファーする予定だった渡哲也が奇しくも療養中であったことと、菅原がサンケイに連載されていた「仁義なき戦い」の熱烈なファンだったことが重なり決定したキャスティングでした。この偶然の出演が後に菅原文太最大の代表作になりました。上の写真で台本を読んでいるのが菅原文太です。
『仁義なき戦い・完結編』のクランクアップのとき、菅原文太は美能幸三と対面を果たします。自分の役のモデルとなった本物のヤクザを前に、写真では少しばかり身をかがめる菅原の姿が映っています。
仁義なき戦いのモデルになった登場人物②山村辰雄
第一作『仁義なき戦い』の黒幕が山守組組長・山守義男です。山守は実際に美能の親分だった山村辰雄がモデルとなっています。上が山村辰雄とその妻の写真です。
山村辰雄は決して侠客と呼べる人物ではありませんでした。義理固いどころか、組織の親分でありながら子分たちを内部分裂させ自分の身を守ろうとするような男でした。しかし、当時の極道に足りなかった商才というものが山村にはあり、その商才を以て組を安定させていたのも事実でした。
山村辰雄をモデルとした山守義雄を演じたのは金子信雄でした。監督の深作は三國連太郎を推していましたが、岡田が三國に広島弁ができるとは思えないと一蹴し、金子に決まりました。映画公開当時、金子は偶然自身が演じる役のモデルとなった山村親分の舎弟に出くわしたことがあり、「俺の親分だ」と冗談まじりに部下に紹介されて冷や汗をかいた過去があります。
仁義なき戦いのモデルになった登場人物③大西政寛
シリーズ1作目『仁義なき戦い』で主人公・広能の義兄・若杉寛のモデルとなったのが大西政寛です。大西は土岡組の幹部でしたが、服役時代に美能と兄弟の契りを交わしたため、なにかと美能と山村組を気にかけていました。土岡組と山村組が衝突しそうになったとき真っ先に止めに入ったのも大西でした。上の写真が大西本人です。
映画では梅宮辰夫が演じ、頼りがいのある兄貴分として登場しました。実際の大西より貫禄のある出で立ちでした。若杉はモデルとなった大西同様、警察によって射殺されます。
仁義なき戦いのモデルになった登場人物④佐々木哲彦
第一作目『仁義なき戦い』で広能の親友にして敵対者が坂井鉄也です。劇中では大きなサングラスが印象的な登場人物でした。坂井鉄也のモデルとなった人物が佐々木哲彦です。佐々木は勢力が大きくなり統率が取れなくなっていた山村組に危機感を持ち、独立しようとしたのでした。上の写真が佐々木本人です。
佐々木をモデルにした敵役・坂井を演じたのは松方弘樹でした。坂井は広能から「てっちゃん」と呼ばれるほど親交の深い間柄でしたが、組織の将来を憂い、親分である山守と対立してしまいます。子どもにおもちゃのお土産を買おうと店に入ったときに山守の手の者に撃たれ、あえなく息を引き取りました。
仁義なき戦いのモデルとなった組織とは?
『仁義なき戦い』には数多くの組織が登場します。これらの組織ももちろん実際にあった暴力団組織をモデルにして制作されました。ここでは、そのモデルとなった組織をご紹介します。(写真は劇中のものと混在しています)
仁義なき戦いのモデルになった組織①山村組
山村組は『仁義なき戦い』で山守組のモデルとなった組織です。山村辰雄が親分を勤め、幹部には美能幸三や佐々木哲彦がいました。元々は戦後すぐの闇市で暗躍していた土建屋でしたが、山村が組織としてまとめあげ「山村組」として発足しました。
第一作『仁義なき戦い』で描かれる広能の山村組入り~内部分裂までは第一次広島抗争と呼ばれる抗争がモデルになっています。この抗争によって山村組を破門となった美能は敵対組織だった打越組に蔵替えし、その傘下の美能組を立てます。
美能の離反があってからも山村組は存続し、山村辰雄の巧妙な立ち回りで政治結社「共政会」が発足。第三次広島抗争と呼ばれる抗争はこの組織の内紛が発端となります。こちらの抗争は『仁義なき戦い』シリーズの最終作『仁義なき戦い・完結編』のモデルになっています。
仁義なき戦いのモデルになった組織②土岡組
『仁義なき戦い』の土居組のモデルが土岡組です。土岡組は初期に山村組と対立しましたが、鉄砲玉として贈られてきた美能幸三が土岡組組長を襲撃。組長は重傷で留まったものの、土岡組は事実上解散となり、山守組の分裂一派に吸収されました。
仁義なき戦いのモデルになった組織③美能組
シリーズ第二作『仁義なき戦い 広島死闘篇』から登場する広能組のモデルになった組織が美能組です。名前どおり美能幸三が立ち上げた組です。山村組のような一大組織ではなく、打越組の下部組織として動いていました。美能幸三の下で美能組は上手く回っていましたが、美能の服役中に部下が樋上組組長を射殺するという不祥事を起こしました。
仁義なき戦いのモデルになった組織③岡組
岡組は『仁義なき戦い 広島死闘篇』から登場する村岡組のモデルとなった組織です。岡組は組長・岡敏夫が立ち上げた組で、若衆には山上光治がいました。
この山上という男はかつて山守組のシマで無許可で商売していたため暴行を受けた経験があり、岡組入りしてからは山守組に対しての報復を願っていました。第一次広島抗争では次々と敵対者を殺害したため「殺人鬼」と呼ばれ恐れられました。最後は警察に追い詰められ、逃げ込んだ酒屋で「親分を頼むぞー!みんなもありがとなー!」と叫んだあと、拳銃で自分のこめかみを撃って自殺しました。
仁義なき戦いのモデルになった組織③打越組
打越組は打本組のモデルとなった組織です。シリーズ第三作『仁義なき戦い 代理戦争』で登場しました。美能幸三は山村組を破門になったと、打越組と杯を交わし、以降山村組と対立します。打越組は山村組の内部紛争の機に乗じて着々と勢力を伸ばした組織でした。
仁義なき戦いのあらすじ・シリーズを簡単に紹介!
『仁義なき戦い』シリーズは全5作。『仁義なき戦い』『仁義なき戦い 広島死闘篇』『仁義なき戦い 代理戦争』『仁義なき戦い 頂上決戦』そして『仁義なき戦い 完結篇』です。それぞれ数多くの登場人物が登場し、そのほとんどにモデルが居ます。作中の登場人物とモデルとなったヤクザはどんな人間だったのか、『仁義なき戦い』シリーズが公開されるたびに話題をよびました。
ここではこれまでのモデルの紹介を踏まえて、『仁義なき戦い』シリーズの各作品ごとの簡単なあらすじをご紹介します。劇中の写真と共にごらんください。
第1作目「仁義なき戦い」
『仁義なき戦い』はシリーズ第一作目、東映が本格実録ヤクザ映画を作るきっかけとなった大ヒット作になります。戦後のヤミ市でくすぶっている広能が刑務所で若杉と出会い、その縁で山村組に入り、山村組のために自ら鉄砲玉となるのが前半。出所した広能が分裂した山村組を元に戻そうと説得して回るのが後半になります。
広能が主役でありながらも個々の登場人物の描写も丁寧になされていて、群像劇としても高い評価を得ました。これは原作になった美能の手記に、登場人物のモデルになった人間たちの様子が細かく記されていたことと映画としてわかりやすくデフォルメした笠原のアレンジがマッチしていたことが理由です。
そのため敵役の坂井も後半では主役級の扱いをされています。自分を襲撃してきた広能を見逃し、車で送ってやる際に「昌三、わしら、どこで道、間違えたんかの」から始まる問いかけとも独り言ともつかない寂しげなセリフは多くのファンの心をつかみました。坂井のモデルとなった佐々木哲彦も美能幸三と仲がよく、美能はこの結末を悔やんでいました。
第2作目「仁義なき戦い 広島死闘編」
『仁義なき戦い 広島死闘篇』は『仁義なき戦い』と同時期の村岡組と大友組を描いた作品です。そのため『仁義なき戦い』の続編というよりはスピンオフに近い形になっています。村岡組は岡組をモデルに、大友組は村上組をモデルに設定されました。
この作品に登場する大友組組長・大友勝利はシリーズで1,2を争う人気キャラクターとなりました。それまでアクションスターとして認識されていた千葉真一が、演技力も備えた実力派のイメージを持つようになったのはこの大友勝利がきっかけでした。大友勝利は北大路欣也演じる山中正治と敵対していきます。
北大路の山中正治も高評価を得ました。「殺人鬼」と称された山上光治をモデルとした役ともあって、劇中でも強烈な行動が多い山中を、北大路は見事に演じていたのです。
第3作目「仁義なき戦い 代理戦争」
シリーズ第三作目『仁義なき戦い 代理戦争』は『仁義なき戦い』の直接の続編にあたります。村岡組と大友組の抗争から視点は再び広能に戻り、呉市の広能組・山守組と広島市の村岡組・打本組の4つの組を中心に物語が進みます。
この作品はシリーズ通して最も高評価を得た作品でした。単純に呉市対広島市の抗争ではなく、組織同士の様々な思惑が絡み合い、極道一人ひとりの意地や価値観も垣間見える非常に魅力的な大規模群像劇になっています。
また、神戸市のヤクザの明石組(モデルは山口組)の幹部として梅宮辰夫が再出演しました。『仁義なき戦い』では広能の義兄・若杉を演じていましたが、こちらでは明石組の幹部でありながらも広能を気に入る岩井信一役を演じました。岩井は山口組若頭山本健一がモデルとなっています。
第4作目「仁義なき戦い 頂上決戦」
シリーズ第4作目は第二次広島抗争の終結までをモデルに物語が展開していきます。前作の群像劇で描かれた個々の行動・思いが1つに集約されていく見事な構成になっており、『仁義なき戦い 頂上決戦』は『仁義なき戦い 代理戦争』と続けて観てこそとまで言われています。
広能が山守組だった頃とはもはや時代が大きく変わり、ヤクザはマスコミや世間から大きなバッシングを浴びるようになっていました。第二次広島抗争の頃はちょうど東京オリンピックが開催される直前であり、市民はもちろん警察も暴力団とは徹底的に争う姿勢を見せました。今まで慣習として見逃されてきたヤクザたちは突然日本の敵となったのです。
そんな中で上手く生き残っていたのはやはり商才と根回しの才がある山守組組長山守義雄でした。広能たちは時代の移り変わりを痛感し、もはやヤクザの時代は終わったのだと悟ります。服部武をモデルにした山守組幹部・武田旭も広能と同じ「取り残されたヤクザ」として哀愁漂うキャラクターになっており、広能との会話はシリーズ屈指の名シーンに数えられます。
第5作目「仁義なき戦い 完結編」
第5作目『仁義なき戦い 完結編』でこのシリーズは終幕を迎えしました。脚本の笠原は前作を最後のつもりとして書いたため、5作目の脚本執筆を拒否しました。代役として高田宏治が脚本を書いています。
完結編は脚本家が代わったせいで出来が悪く、蛇足になってしまったという評価もあります。しかし既に人気シリーズとなった『仁義なき戦い』は撮影には本物のヤクザが見物に集まり、公開したらモデルにした本人から抗議の怒鳴り込みが来るといった事態になっていました。美能の手記を基にした実録映画というコンセプトはもはや実現不可能なくらい、このシリーズは裏社会で有名になっていたのです。
そのため、完結編は今までとは違い短編集のような様相になっています。モデルにした人物に気を使って、襲撃シーンや殺害シーンは極力情けない姿を描かないようにしたので、登場人物たちは全てそれなりに格好良く描かれました。「格好良いヤクザ」からの脱却を目指したシリーズであったにも関わらず、完結編でその「格好良いヤクザ」に戻ってしまいました。
しかし結局、その格好良さが観客にはウケて、完結編は無事ヒットに終わりました。シリーズのファンは次第に登場人物たちに愛着がわいて、彼らの活躍する姿を期待していたのです。モデルにしたヤクザの体面を保ちつつ観客にも喜ばれる作品を書いた高田は「小手先」勝負だったと言いつつ「いい勉強をした」と安堵のコメントを発表しました。
完結編でモデルとなった抗争は第三次広島抗争と呼ばれる抗争でした。これは山守組の政治結社「共政会」の内紛によるものでしたが、映画ではそこを上手く侠客たちの生き様として描いて壮大な物語のように見せました。作中に登場する「天政会」は「共政会」がモデルとなっています。
仁義なき戦いのモデルとなった登場人物や組織はたくさんいた!
いかがでしたでしょうか?『仁義なき戦い』シリーズは実在のヤクザや組織をモデルにして作られたシリーズなのです。今回は写真と共に日本ヤクザ映画の金字塔『仁義なき戦い』シリーズの解説をしました。現実の極道の世界をモデルに丁寧に作られた作品だからこそ、今日でも高い評価を得ているのです。