2018年09月23日公開
2018年09月23日更新
蟹工船のあらすじから結末までネタバレ!実写映画と原作の違いは?【小林多喜二】
2009年に上映された戦前のプロレタリア文学作家、小林多喜二による原作小説「蟹工船」をもととして描かれた、映画、「蟹工船」。小林多喜二による原作小説「蟹工船」は蟹工船ブームと言わしめる社会現象をも巻き起こしたほどに一躍名前を知らしめました。「蟹工船」の原作あらすじと映画のあらすじや結末の相違点、「蟹工船」とはどのような背景に生まれた作品であったのか、ふぃっくしょんとして生み出されたものであったのかなど、「蟹工船」について迫ります。
目次
蟹工船あらすじ結末をネタバレ!映画と原作の違いも調査
「蟹工船ブーム」と呼ばれた社会現象を引き起こした作品、戦前の日本が誇ったプロレタリア文学作家、小林多喜二による著作を原作とする「蟹工船」は、1929年、昭和4年に文芸誌、「戦旗」に投稿発表された作品、小林多喜二による「蟹工船」を原作としてあらすじを描いた作品でした。小林多喜二による原作、「蟹工船」は1953年に既に映画化されており、原作のあらすじや結末を2009年の映画、「蟹工船」はどう描いたでしょうか?
2009年の映画、「蟹工船」のあらすじや結末をネタバレとともに紹介していきながら、原作小説「蟹工船」との相違点や、「蟹工船」なる作品とはどのようなものであったのか、原作者小林多喜二の描いた「蟹工船」のあらすじと結末とネタバレに、2009年公開上映された映画、「蟹工船」との相違点はあるのか、原作小説「蟹工船」はフィクションとして描かれたものがネタバレなのか、あらすじに結末は実話をもとにされているのか?
プロレタリア文学作家、小林多喜二による原作小説「蟹工船」と2009年公開上映された映画、「蟹工船」の2つについてと、1953年の公開上映作品である映画、「蟹工船」もまとめてあらすじや結末ネタバレ、原作との相違点や原作小説が描いたものがフィクションであったのか、実話であったのか、「蟹工船」についてネタバレを含めてあらすじを紹介しながら、原作「蟹工船」と映画「蟹工船」について迫っていきます。「蟹工船」とは?
蟹工船とは?
2009年公開上映の映画、「蟹工船」は1953年にも上映公開されていますが、元の原作は、プロレタリア文学作家、小林多喜二による1929年の戦前の日本で発表された文芸誌「戦旗」に投稿発表された作品、「蟹工船」となります。プロレタリア作品として高い評価を誇り、日本国内のみならず海外でも評価された原作小説「蟹工船」は、作家小林多喜二の名を一躍世間に知らしめて、帝国劇場での上映なども原作発表当時になされました。
1929年の小林多喜二によって発表された文芸誌「戦旗」での投稿による「蟹工船」はプロレタリア文学作家としての小林多喜二の名を知らしめ、すぐれた文学作品であると高く評価を受けて、1930年の築地劇団による帝国劇場での上演、当時の世相を受けて暫くは名前を日の目に見なかった作品は、戦後に再び名前を表し、1968年を皮切りに劇団による上演も重ねられ、1953年に初めての「蟹工船」映画化がなされました。
蟹工船あらすじ
映画「蟹工船」であれ、原作小説「蟹工船」であれ、「蟹工船」の描くあらすじのネタバレは過酷な環境の中での使い捨てとして扱われる人間を人間として扱わない労働環境とその告発とも言えるものになります。プロレタリア文学作品である「蟹工船」は虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いたあらすじと結末のネタバレになります。「蟹工船」プロレタリア文学とは1920年代から1930年代にかけて最も描かれた文学の一派です。
「蟹工船」作中で議論が成されるプロレタリアートとは、労働者階級の権利意識を謳ったもので、プロレタリア文学の言葉はここから生まれています。厳しく過酷な労働環境と労働者の置かれた立場や厳しい現実を文学として描いた作品が「プロレタリア文学」と呼ばれ、「蟹工船」はその中でも高く評価を受け、プロレタリア文学作家の名を小林多喜二の名前と切っても切り離せない地位にまで登らせて、数か国にわたる翻訳がなされました。
蟹工船のあらすじをネタバレ解説!
映画、「蟹工船」のあらすじをネタバレを含めて解説していきます。「おい、地獄さ行くんだで」で始まるあらすじ冒頭、舞台と時代は戦前に遡ります。あらすじのネタバレは冒頭の台詞から始まっています。オホーツク海のカムチャッカ半島海域での漁業に使用される漁の獲物を加工する大型船は、搭載した小型船で捕獲した蟹を直ちに「缶詰」へと加工する場、その船に乗り込み作業労働へと赴くことを「地獄さ行く」と表すあらすじです。
「蟹工船」の舞台であるタイトルとあらすじそのままの「蟹工船」は、名前を「博光丸」として、蟹工船のあらすじと物語は進みます。「蟹工船」である「博光丸」は渡航目的の船ではなく、「蟹工船」のタイトルとあらすじが示す「工船」です。渡航法は適用されず、危険な老朽船が用いられても法律に触れません。また、「蟹工船」の舞台は海上であり工場でもなく、工場での労働とも見做されないために労働法は適用外の無法地帯です。
労働者が何の法律にも守られない貧困層を集めての「蟹工船」の中では労働者を人間と扱わない環境がまかり通っていたとあらすじは続きます。「蟹工船」冒頭の台詞、「地獄さ行くんだで」が既に「蟹工船」のあらすじとネタバレを示しているとはこのあらすじに描かれるものです。映画、「蟹工船」の中で、劣悪な労働環境を黙認する政府と非人道的な労働者への扱い、過酷な労働環境と情け知らずの監督の下での地獄の労働が描かれます。
情け知らずの監督の下での劣悪で過酷を極める労働環境があらすじに描かれる「蟹工船」の劇中で、暴力、虐待、過労と重なるものに倒れてゆく労働者たち。彼らを守れるものは居ません。「蟹工船」はその中で転覆を引き起こします。「蟹工船」のあらすじの中で投げ出された労働者たちを救ったのはロシアの人間であったことから、ロシア人も日本人も中国人もみな同じ人間なのだと労働者たちは感じて次第にお互いの仲を深めます。
プロレタリアートの何たるかを語り合うようになった労働者たちが描かれますが、監督はそれを「赤(アカ)」と見做し出します。「蟹工船」に描かれる中でのプロレタリアートとは、資本主義社会の中での賃金労働者階級を指すもので、原作や映画「蟹工船」がプロレタリア文学と呼ばれるそのものを描いています。当時の言葉で「赤(アカ)」とは危険思想であり、許されるものではなかった中で、労働者たちは権利意識を目覚めさせます。
自分達は決してこのような劣悪な環境に置かれて耐え忍ぶべき存在ではなく、労働者としての権利と人間としての尊厳によるものに守られた中でこその存在であり、そのなかでこそ労働者として生きるのだと自分たちの権利や尊厳を目覚めさせて行く中に、情け知らずに労働者を非人道的扱いの中に鎮圧する監督や会社に甘んじるべきではないと団結して立ち向かうことを決意して、監督への直談判などを試みてゆく男たちが目覚めていきます。
団結して環境の改善や権利を取り戻そうと立ち上がった「蟹工船」労働者たちは、指導者の下にストライキによる闘争に踏み切るのですが、海軍に協力を要請されていた裏での手配と鎮圧に、無線での協力要請で呼び込まれて乗り込んだ駆逐艦の水兵らにより、労働者たちのストライキは鎮圧され、指導に回ったリーダーは逮捕、ストライキは失敗に終わり、労働者たちは再び劣悪な環境の下での沈黙と忍耐を強いられるかと思われました。
蟹工船の結末をネタバレ解説!
映画、「蟹工船」の物語あらすじ結末、失敗に終わったストライキと団結、指導者の逮捕という事態に、労働者たちは再び沈黙を強制されざるを得ないかと思われましたが、そこで黙りませんでした。作戦を練り直してのストライキを再び水面下で進めます。ここまでは原作と同じ展開ですが、2009年上映の映画作品、映画、「蟹工船」の結末はどう描かれたでしょうか?2009年の映画、「蟹工船」のラストシーンを描きます。
あらすじ結末に
情け知らずの監督である浅川の鎮圧とリーダーを失った男たちは黙らざるを得ないかと思われた中に、ストライキの失敗による結末ではなく、闘争の中でリーダーの血が染み込んだ団結の旗を掲げて、それは未来への希望を暗示するように大きな歯車が船の中で外れてエンドという形に、映画「蟹工船」の結末は描かれています。はっきりとした形ではない中に労働者たちの未来への希望を暗示させる余韻を描いての映画ラストが描かれました。
蟹工船の実写映画と原作の違いはある?
実写映画化作品「蟹工船」と原作の違いはラストシーンや要所要所で描かれました。原作小説ではなかったコメディ色を盛り込んだのが2009年版の映画「蟹工船」である描かれ方もありました。過密な労働環境下にあり、危険思想と見做される中にいながら、明るさを失わないと何処かコミカルな面を描かれたのが、2009年の公開映画「蟹工船」の労働者たちでした。小林多喜二による原作小説では描かれなかった男たちの一面になります。
ロシアの船に助けられた労働者たちに中国国籍の労働者が「何をなすべきかは自分で考えるのだ。今、何をなすべきなのかを自分で考えなければならない」と告げられて目覚めていくプロレタリアート、賃金労働者階級の権利とあるべき姿とはという重くのしかかる時代背景の中に描かれる思想でありながら、コミカルで明るく議論を成していく男たちの姿と労働者たちが映画による「蟹工船」の中には描かれています。結末もまた同じくです。
蟹工船は実話?フィクション?真相を調査
1953年、そして2009年と2度にわたって映画化された「蟹工船」の原作小説は、1929年に文芸誌「戦旗」に投稿され、発表された作品でした。プロレタリア文学作家、小林多喜二の代表作であり、当時の世相に置いては異色の発表となった作品で、小林多喜二の生涯とも密接に関連したプロレタリアートを描いた「蟹工船」は作家としての小林多喜二によるフィクションとして生まれたのでしょうか?「蟹工船」にはモデルがありました。
あらすじは実話に基づいて
小林多喜二による原作小説「蟹工船」の舞台である「博光丸」は架空の「工船」ですが、モデルとなった船舶は病院船の「博愛丸」であるとされています。1898年に造船された「博愛丸」は日本赤十字社による「病院船」として造船され、1900年から19001年にかけて患者輸送船として使用されます。日露戦争の折の1904年から1905年、明治37年から38年にかけても病院船として使用されていたのを1926年に民間に売却されました。
1898年の造船でありながら1926年に売却された老朽船の「博愛丸」は、小林多喜二が描いた「蟹工船」である「博光丸」と同じく、北洋漁業と呼ばれるオホーツク海域での漁業で使用され、実際に「蟹工船」は存在していました。「蟹工船」と改造された「博愛丸」では漁業の過酷な作業中に、リンチなどの暴力と厳しい労働環境の中で死者をも出し「博愛丸事件」と呼ばれたこれが小林多喜二の「蟹工船」の小説のモデルとなっています。
小林多喜二による「蟹工船」のモデルとなった「博愛丸」と「博愛丸事件」ではありますが、「蟹工船」とは当時の現実に存在した船舶と労働でもありました。夏場の漁期には貨物船を改造した「蟹工船」が北方海域に3か月から半年をかけて活動し、漁期ではない期間を通常の貨物船として運行したため、「蟹工船」と呼ばれる船は専用の船舶ではなく、数多くの「蟹工船」が大正時代から昭和40年代までに運行されていました。
「蟹工船」の労働環境は多喜二が描いたように過密であったと伝えられています。小林多喜二による「蟹工船」発表後も現実の中に存在した「蟹工船」で虐待による死者を出した船舶や、1日に20時間に及ぶ労働環境と睡眠の不足に眠気を催せば暴力が厭われない環境であったとされ、多喜二の「蟹工船」はこうした中から生み出されたと言えます。「蟹工船」の運行と操業は北洋漁業の廃止となるまで戦後にわたって続きました。
蟹工船のあらすじまとめ!
2009年に公開上映された映画、「蟹工船」のあらすじと「蟹工船」の原作小説、「蟹工船」とはどのようにして生まれた作品で、どのような作品であったのか、作家小林多喜二による原作小説「蟹工船」と2009年に描かれた映画作品、映画、「蟹工船」の違いはあったのか、「蟹工船」の成り立ちや「蟹工船」はフィクションとして生み出された作品であったのかについてなど、「蟹工船」の描かれた背景などを踏まえて紹介してきました。
プロレタリア文学と聞くと難しいようですが、作家小林多喜二が描いた作品、「蟹工船」は「蟹工船ブームと言わしめる社会現象をも巻き起こしました。小林多喜二原作小説をもとに、現代の要素も加えてプロレタリアートの何たるかを議論する男たちを明るくコミカルに描かれた作品、2009年上映の映画「蟹工船」になります。モデルとなった「博愛丸」など当時の背景なども浮かべながらご覧になってみてはいかがでしょうか?