2018年09月22日公開
2018年09月22日更新
蟹工船の作者・小林多喜二は拷問死した?虐殺の真相を考察【プロレタリア作家】
2009年に1953年の最初の映画化から半世紀余りを経て再び上映された、小林多喜二を作者としたプロレタリア文学作品、「蟹工船」の背景にある、「蟹工船」作者小林多喜二とはどのような生い立ちの人物で、拷問による虐殺とされる死の真相の考察と小林多喜二の「秒施設」など、プロレタリア文学作家、小林多喜二について、代表作である「蟹工船」とともに迫ります。プロレタリア文学とはそもそもといった疑問にも触れてみます。
目次
蟹工船の作者である小林多喜二拷問死したのか? 虐殺の真相に迫る!
「蟹工船」とは、日本のプロレタリア文学作家、小林多喜二によって1929年、昭和4年に文芸誌、「戦旗」なる誌上で発表された作品です。プロレタリア文学の代表作とも呼ばれた「蟹工船」は国際的な評価も高く、日本国内のみならず数か国にわたって翻訳されて出版されています。そんな作者小林多喜二はこの「蟹工船」なる作品によって「不敬罪の追起訴」などと当時の時代を反映した法律下で「罪」に問われていたのが語られています。
小林多喜二の生涯をたどると、「蟹工船」の発表から「昭和4年の最高傑作」と謳われた作品の作者でありながら「蟹工船」の作者として、優れたプロレタリア文学作家と名を馳せるとともに戦時下の検閲や法律に抵触したと見做され、「蟹工船」の作者である小林多喜二は当時の特別高等警察、特高警察と呼ばれる治安取り締まりの中で、検閲と治安維持法の下に拷問と虐殺による非業の死を遂げたと歴史は語ります。小林多喜二に迫ります。
プロレタリア文学の傑作と呼ばれた小林多喜二作者による「蟹工船」は、戦後の1953年に初めて映画化されていましたが、それから55年余りを経た2009年にリバイバルで上映され、スクリーンに復活し、貧困に苦しむ若者などの指示を受けて「小林多喜二ブーム」や「プロレタリア文学ブーム」、「蟹工船ブーム」と呼ばれる現象にまで発展しました。その作者、小林多喜二の拷問と虐殺死の真相、小林多喜二の生涯、「蟹工船」とは?
1953年に製作された映画、「蟹工船」と原作となった作者小林多喜二によるプロレタリア文学作品、1929年発表の「蟹工船」から映画としては55年という半世紀余りの月日、「蟹工船」としては実に80年を経て、社会現象ともいわれるブームを巻き起こした小林多喜二の拷問虐殺による死の真相、小林多喜二とは? 「蟹工船」とはなど「蟹工船」の作者小林多喜二と「蟹工船」について、非業の死を遂げた作者を徹底紹介していきます。
蟹工船の作者・小林多喜二とは?
「蟹工船」の作者である小林多喜二は、1903年、明治36年に秋田は小作農家の次男として生を受けた、日本の小説家であり、プロレタリア文学作品を代表する作家として名を馳せます。生い立ちは複雑で、秋田の小さな農家の次男として生を受けた多喜二は北海道は小樽の伯父から、長男として生を受けたもの多喜二4歳にならずして天命を終えた兄に代わっての役割と伯父の計らいに、家族総出で小樽に移住します。多喜二4歳の頃です。
決して裕福な家庭になく、伯父の工場に住み込みで働き、その代替え条件として学資を受けての進学に、小樽商業学校から小樽高等商業学校へと進みます。小樽商業高等学校はのちの小樽商科大学となります。在学中から文学と創作に親しんでおり、絵画や文芸誌への投稿などを寄せていました。学校の会誌の編集委員を務め、自身でも作品を発表と文学に意欲的に携わり、同校教授の教えなどや自らの環境がのちの作品に大きく関与します。
蟹工船の作者小林多喜二はなぜ拷問死したのか?
優秀なプロレタリア文学作家、小林多喜二の死は作品「蟹工船」や、「一九二八年三月二十五日」という作家として多喜二が生み出した作品と、多喜二の生き方、思想哲学と切り離しては語れないでしょう。幼いころからタコ部屋と称される過酷な使い捨て労働者の環境や自らの育った家庭の貧しさなど、のちの作家、小林多喜二の作風や生き方に大きく関わることになる環境は常に身近に存在し、多喜二に他人事の世界にはありませんでした。
1924年、小樽商業高等学校卒業後、1928年の総選挙から政治活動に携わり、立候補者の選挙活動の手伝い、応援演説と積極的に活動、この経験が生かされたのがのちに世に出る「東倶治安行」とされています。頃を同じくして、1928年に起こった「三・一五事件」を題材に描いた作品、「一九二八年三月十五日」の描写が特別高等警察、特高警察の目に留まることとなり、のちの小林多喜二の「拷問死」へと繋がったとも言われています。
「三・一五事件」とは、1928年3月15日に行われた当時の世相を反映した事件であり、1924年の発足内閣からなる審議に第一次世界大戦後の日本の政治背景から成立した1925年の治安維持法を受けて、マルクス主義と呼ばれた思想を掲げた現代の日本共産党の前身である非合法政党時代の第二次共産党員の逮捕、投獄が可能となった世相を背景に行われた何千人となる第二次共産党員の拘束と約300名を重ねた検挙、収監と連ねた事件です。
この事件を受けた作家、小林多喜二が描いた作品。「一九二八年三月十五日」を多喜二は文芸雑誌、「戦旗」に投稿、作品の中で描かれた、特別高等警察、特高による「拷問」の描写が特別高等警察の怒りを買ったとされています。翌年となる1929年には「蟹工船」を同じく文芸誌「戦旗」へと投稿、一躍して注目を集めたプロレタリア文学旗手としての作家小林多喜二の名前が広まり作品「蟹工船」は帝国劇場で名前を変えて上演されます。
作家、小林多喜二の名前を知らしめることとなった「蟹工船」は大きな衆目を集めることとなり、同時に警察、中でも特別高等警察、特高から要注意人物としてのマークを受けることになります。これらの作品は作家としての小林多喜二の名を知らしめましたが、同時に多喜二が勤めていた銀行からの解雇理由ともなり得ました。これを機に、多喜二は東京へと転居し、日本プロレタリア作家同盟書記長を名乗り、文芸の道で幅を広げます。
文芸雑誌「戦旗」の発売禁止を阻止しようとする中で、第二次共産党員への関りを疑われて大阪で逮捕されましたが、一度は釈放され、東京に帰京後に再び逮捕を受け、作家小林多喜二の名を世間に知らしめた「蟹工船」の中の描写に「不敬罪」の名前で追起訴を受け、治安維持法による起訴から刑務所へと収容、保釈後に当時は非合法政党であった第二次共産党へと入党、多喜二の拷問と虐殺による獄死の直接のきっかけと繋がります。
1933年の2月20日、作家小林多喜二の拷問死へのカウントダウンは起こります。多喜二所属の共産党青年同盟にスパイとして潜入していた特別高等警察、特高による罠に仲間と共に捕らえられた多喜二の「拷問死」については共に捕らえられていた詩人、今村垣夫の証言によって伝えられています。特別高等警察係長の指揮のもとによる数名がかりの拷問の中で命を終えたと証言するもので「小林多喜二の死」という名で文章に綴られました。
同じく逮捕拘留された今村による証言は、プロレタリア文学作家小林多喜二の死は警察当局の発表によるものではなく、特別高等警察指揮下の元での数人がかりによる拷問による虐殺であると多喜二の死を語るもので、「取り調べのための拘留中に突如と苦悶を始めて気付いて直ぐに病院に搬送した」という所長の証言や発表を真っ向から否定し、多喜二の受けたとされる拷問を綴り、今村の証言は戦後に明らかにされています。
蟹工船の作者小林多喜二は病死だった説を考察
プロレタリア文学作家、小林多喜二の死が拷問による虐殺ではなく病死であったとされる説は、特別高等警察による発表からなるものになります。拷問の末の虐殺ではなく「心臓麻痺による病死」とされた発表は、警察当局によるものです。当時の多喜二の遺体を見た遺族の証言に多喜二の遺体は今村が伝えた虐殺に至った拷問によるステッキのむち打ちを語る晴れ上がった様相に内出血を起こしたと見られる下半身はどす黒い様と伝わります。
1933年2月20日に逮捕拘留されたプロレタリア文学作家小林多喜二は、逮捕拘留された2月20日その日の夕方19時過ぎには搬送先の病院で死亡が確認されたと記録されています。1933年2月20日19時45分に小林多喜二死亡と確認と記録が残されました。翌日の21日に警察当局が死亡原因を「心臓麻痺」によるものと発表しており、多喜二の死因が「病による死である」と、公的には発表されたとなっていますが真相はどうでしょうか?
特別高等警察によるものであると知っていての、警察当局の発表と異なる死因を恐れた解剖医も病院も多喜二の検体解剖を断っていますので真相は定かとなりませんが、警察当局の発表そのままに小林多喜二の死因を「心臓麻痺による病死」とするにはあまりに無理を通さなければ成り立たないのではないかと考察します。遺体を見た遺族の証言とその様を遺そうと描かれた絵画や遺物が語るのは、多喜二の死は虐殺による拷問の末であったと。
小林多喜二の有名な代表作品を紹介
作家、小林多喜二の虐殺と拷問についての考察を挟んできましたが、「プロレタリア文学作家小林多喜二」の作品について見ていきましょう。代表作となった作品、「蟹工船」を始めとして、作家、小林多喜二の遺した文学について紹介します。まずは作家小林多喜二を生んだ最初の作品「一九二八年三月十五日」についてです。その名の通り1928年の事件を綴った多喜二のこの作品は作中で特別高等警察による拷問が詳細に描かれています。
小林多喜二自身が経験した拷問をも描いたとされるこの作品は、特別高等警察、特高による過酷で残酷な拷問描写を生々しく詳細に描写した作品であり、当時の世相から考えてもかなり「異例」で「異端の作品」であったことは間違いないでしょう。当時の特別高等警察、特高は国民が恐れる特別権力であり、それに真っ向から喧嘩を売った形の作品でのプロレタリア文学作家、小林多喜二による文壇デビューとなったと言えます。
作者代表作「蟹工船」
プロレタリア文学作家、小林多喜二の名を語る上で外せないのはもちろんのこと、代表作であり、作家、小林多喜二の名を確たるものとした1929年に文芸誌「戦旗」に投稿発表された小説、「蟹工船」です。プロレタリア文学とは1920年から1930年代にかけて流行した文学用語で、過酷な環境の中に虐げられる労働者の厳しい現実を描いた文芸、文学作品であり、「蟹工船」もまた同じく厳しい環境の中で労働者を描いた作品でした。
「おい、地獄さ行くんだで」で始まる冒頭に描かれる労働者を人間とも思わない扱いに描いたこの作品ですが、プロレタリアート作品としての評価に、1930年に築地劇団がタイトルを「北緯五十度以北」と偏して帝国劇団で上映、多喜二の1933年死後も名を遺して守られ続け、終戦後の沈黙を破り、再び日の目をみることとなります。劇団での上映、映画作品としての「蟹工船」が最初に手掛けられたのは1953年、山村聡が手掛けました。
それから50年少しという半世紀余りを経て作家小林多喜二によるプロレタリア文学「蟹工船」が一躍ブームとなったのは、2009年のリバイバルでの映画「蟹工船」と、「ネットカフェ難民」と呼ばれる貧困にあえぐ若者たちからの支持を受けてのものであったと言えます。半世紀余りを経て再びスクリーンへと戻った「蟹工船」は「蟹工船ブーム」と呼ばれる現象を起こし、プロレタリア文学作家小林多喜二の名が再び世に知らされました。
非正規雇用形態の増大、低賃金の条件下での過密な長時間労働など、働く貧困層の拡大、若者による貧困の広まりと過酷な労働条件が広まったとされる社会的背景のもとに、2008年に再び脚光を浴びた、小林多喜二による「蟹工船」は、50万部以上を売り上げるベストセラーとして新潮文庫で売り上げを叩き出し、そんな背景の下で、2009年に再び映画としてスクリーンで上映され、「蟹工船ブーム」と呼ばれる現象に繋がりました。
蟹工船の作者である小林多喜二の拷問・虐殺死の真相まとめ
プロレタリア文学作家、小林多喜二の「蟹工船」とともに、「蟹工船」の作者である小林多喜二の拷問による虐殺や小林多喜二について、作家小林多喜二の遺した文学作品やプロレタリア文学作家、小林多喜二誕生の背景やプロレタリア文学とはなど、小林多喜二について紹介しながら見てきましたが、いかがでしたでしょうか? 「蟹工船ブーム」が過ぎ去って数年になりますが、今もなお書店では目にしないことの少ない作品タイトルです。
命を懸けて描かれたとも言える小林多喜二の作品、「蟹工船」は1929年の文芸誌、「戦旗」に寄る多喜二の初めての投稿と発表から80年余りの年月を経た今もなお人々の心に刻まれる作品であると言えるからこそ、「蟹工船ブーム」やブームが過ぎ去った後の数年を経た今でも書店から消え去ることなく名を遺していると言えるでしょう。この記事をご覧になったのをきっかけに、小林多喜二の「蟹工船」を一度ご覧になってみては?