2018年09月23日公開
2018年09月23日更新
野火の映画あらすじをネタバレ!リアルに戦争の悲惨さを描いた内容・感想は?
【※ネタバレ注意】映画『野火』は、大岡昇平原作の同名傑作戦争小説を現代風で鮮明な映像でリアルに描き直した日本映画です。内容は戦争、またカニバリズムと、時代関係なく誰しもが目を伏せたくなるような凄惨なものですが、元来人間が持つはずの孤独と世界との関わり、そしてその先の心について、見事なまでに描き切っている点がこの映画『野火』の評価すべき点です。今回は、映画『野火』について、あらすじと感想について、多くのひとの視点と感想も交えながら完全ネタバレでご紹介します。
目次
野火の映画あらすじをネタバレ紹介!感想も紹介!
『野火』は、2015年7月25日に公開された、大岡昇平の代表作である同名小説をとことんまでリアルに映像化した日本映画です。今回はこの映画『野火』について、そのあらすじと感想をメインにネタバレでご紹介します。
小説『野火』は戦争文学をその枠組みとし、宗教観や死生観などを背景に極限状態にある人間のカニバリズム(食人・共食い)に迫った傑作です。何としても自らの手で映画作品にという思いから、たびたびの資金難に泣かされながらも、塚本晋也監督の自主製作で、20年の構想期間を経て『野火』は映画化されました。監督のほか、脚本、製作、撮影、そして主演をもこなしています。
ちなみに1959年に1度、市川崑監督により映画化された『野火』ですが、この際は原作のあらすじそのままとはいかず、映像表現の直接性が配慮され「カニバリズム」についての表現は回避されています。
野火の映画あらすじをネタバレ紹介!
舞台は第二次世界大戦末期!敗戦目前のフィリピン
太平洋戦争の末期も末期、日本の敗戦色がいよいよ決定的に濃厚である、フィリピンのレイテ島がこの映画『野火』の舞台です。塚本晋也監督演じる主人公の田村一等兵は肺病やみであり、所属する部隊を追われ、頼った野戦病院からも食糧不足のため受け入れられず、米軍の砲撃にて焼けただれた灼熱の戦地を彷徨います。
“かじりついてでも病院に居座れ、入院が叶わぬなら自害せよ、何のための手榴弾だ”。生きていることも死んでいくこともままならない田村一等兵は、永松という兵士と出会い、煙草との交換を持ちかける彼を制し、手持ちの芋を差し出します。そんななか、やがて野戦病院も爆撃に遭い、生への執着と独りきりであることを突きつけられた田村一等兵の逃走がはじまるのです。
放り出され現地人を手にかけた田村と兵士たちとの出会い
部隊、病院、さらには現地人たちからも敵視され、もつれる足をそのままに辿り着いた廃村で、田村一等兵は畑の作物にかぶりつき、目に留めた教会で束の間の休息を果たします。そこへ訪れた現地人のカップルと遭遇し、「殺さない」との必死の現地語を届けることもできず女に騒ぎ立てられた田村一等兵は、彼女を撃ち殺してしまいます。
自責の念にかられ、またもはや兵として用を為さなくなったことを自覚する田村一等兵は、戦争のために国から支給されたものの、罪もない一般人の女を撃ち殺したその銃を捨てに行きます。
失意のまま畑に戻ってみれば、そこには退却のさなかの日本兵たちがいました。野戦病院で見かけた顔もいくつかあります。皆、生き残るために必死です。“レイテに残存する日本兵はパロンポン(港の名)へ”という司令部命令を伍長らから知らされた田村一等兵は、帰軍し延命が果たせる希望を見出し、生き残るための集団に加わり再び銃を支給されるのです。
テーマは人間の孤独のその先
“俺たちはニューギニアで、人肉を食ったこともある”。ゲリラの襲撃に構え、飢えに苦しみながら、そんな話を耳にした田村一等兵の心は、次第次第にくずおれはじめていきます。敵襲を受け集団からはぐれてしまった田村一等兵は、アメリカ人兵士と寄り添うフィリピン人女性を見つけ投降することを考えますが、そのフィリピン人女性と撃ち殺してしまった現地人の面影が重なり、一歩踏み出すことができません。
その間に投降を試みた他の日本兵は、フィリピン人女性に返り討ちにあいます。アメリカへの投降も許されず、自分は救われることはないと田村一等兵は思い知らされるのです。
戦場という非日常にたたされるなかで、誰からも何からも受け入れられず、また生きることも死ぬことも選べす、抗えば抗うほど、現実と関われば関わるほど、田村一等兵の心にはさまざまなものが突き刺さり、価値観は揺らぎ、追い込まれていくことになります。その先でひとはどうなってしまうのか、それがこの映画『野火』のテーマのひとつだと言えるでしょう。
生きるが地獄か、死ぬが地獄か
わずかに携えていた食糧や塩も尽き、本当の飢えが田村一等兵を襲ってきます。止むことのない米軍の攻撃の雨に、山と詰まれていく日本兵の死体。覚束ない足取りで目にしたそのまるで地獄にいるかのような死体の山という光景を見て、田村一等兵は禁じられた行為、すなわち人間の肉を食らうということについて思いめぐらします。
生きるには食わねばならない、けれど人を食ってまで生きることそれは地獄ではないだろうか。それとも心に従って食わずにおく、けれどそれはそれで死に向かう地獄ではないだろうか。この行きつ戻りつするこの逡巡は、極めて人間らしい迷いと言えます。
永松たちとの再会
「俺が死んだら、ここ、食べてもいいよ」瀕死で蛆だらけの伍長に言われた言葉です。米軍の猛襲を受けながらも、田村一等兵は生きながらえていました。彼は伍長を待ちます。その肉を食べるため、彼の“死”を待つのです。やがて彼は息を引き取った伍長の亡骸にナイフを入れることを思い描きますが、やはりとうとう実行できません。
飢えに飢えて極限状態の彼を人間らしさのその一点に引き止めたのは、彼自身の信念と、ぐるぐる巡る妄想のなかでの万物の声なき声だったでしょうか。正気の沙汰とはとても思えないような世界のなかで、田村一等兵の苦しみは続いていくのです。
やがて、前に芋を恵んだ永松と再会する田村一等兵。朦朧とした彼は、永松の手で水と干し肉を与えられ、罪悪感とともに腹の底で求めていた肉の食感のおかげで、ばらばらになってしまっていた身体の脈という脈を吹き返すのです。「猿の肉だ、撃ったやつを干しておいた」永松はそうぽつりと告げると、虚ろに視線を泳がせるのです。
猿の肉
永松は、足を負傷していた安田という男と行動をともにしていました。ふたりのあいだに漂う微妙な距離感を感じ取る田村一等兵ですが、その理由はわかりません。永松が銃を手に猿を狩りにいくと、田村一等兵は安田に手榴弾を奪われてしまいます。そこで銃声が響き渡ります。「やった」と安田の声。密林を踏み分け草木の先に目をやると、逃げゆく日本兵の姿が映ります。
そう、この人間たちこそが「猿の肉」の正体でした。そのことに薄々感づいていた田村一等兵は、ショックを受けながらもひとつの疑問に行き当たるのです。“永松はなぜ自分を猿の肉にしてしまわなかったのか”。永松も安田の言いなりとなり、罪悪感を共有することで事を行っていたに過ぎず、そこに答えなどなかったのです。
俺がお前殺して食うか、お前が俺殺して食うか
“何で俺のことを殺さなかった?”田村一等兵のその当然の疑問に、答えなどありませんでした。やがて、安田の手に手榴弾が渡ったと知った永松は、先んじて安田を殺してしまおうと田村一等兵に持ちかけます。安田との緊張状態が展開されることを望まない、投げつけられた手榴弾の破片を肩に受けた田村一等兵は、その飛び散った自らの肉を口に入れるのです。
そこに見られるのは、人間の肉を食いたくないながらも生きながらえたいという、のっぴきならない生への執着と煩悶です。悩む田村一等兵を尻目に、永松は安田を見つけるや否や嗚咽しながらも撃ち、狂乱したように殺してしまいます。そこからは手慣れたもので、猿の肉を解体するかのように安田の身体を切り刻んでいきます。
「お前もな、絶対に俺を食うはずだ」安田の肉を貪り口元を血で塗れさせ、完全に狂気に取り憑かれた永松に対し、田村一等兵は激しい怒りを覚えます。それは天の怒りとも呼ぶべきもので、実際にその殺戮と食人の光景を目にすることは、予期しながらも耐えがたいものだったのです。彼は落ちている銃のもとに駆け寄ると、反射的に追いかけてきた永松に対して、その決意の銃口を向けました。
そして完全な狂人へ
人間の肉を食うのか、食わないのか。その心的な戦いに終止符が打たれたと感じた田村一等兵ですが、現地人の一撃でそこから先の記憶を失います。
あれから幾年かの年月が経ち、東京郊外にて、田村一等兵は自らの体験を手記として綴っています。「私の記憶は敵国の野戦病院から始まっている」。離人症なのかPTSDなのかはともかく、彼の心象はあの密林燃え盛る火炎色に、銃弾や猿の肉として解体するナイフによって飛沫をあげる血色に染まっていました。
妻は夕食の膳を差し出しますが、食事をする彼は、力いっぱいをこめて食物を突き刺し、切り刻みを繰り返します。それはさながら戦地で「猿の肉」を解体する永松を反駁するかのような行動でした。そのさまは日本で生活を送ってきた妻からすれば、まるで人間的ではなく獣のようで、何か救いを求めるような恐ろしい光景でした。彼が窓からのぞくその先には、たちのぼる野火の煙がぽつぽつとあるばかりです。
野火の映画の結末をネタバレ紹介!
本来的には誰しも抱えてしかるべき人間の孤独を紛らすように人と人とは関わります。しかし、映画『野火』の世界では、主人公は人と関わろうとすればするほど、あまりに自身の「人間らしい」価値と食い違う光景にショックを受け悩み、葛藤し、自身の深い孤独のほうへと追いやられてしまいます。
常ならぬ状態の世界に身を置いたとき、その生は加速され、孤独は人を完全に捉えます。ラストシーンにおいて田村一等兵は、その特異な状況を手記として振り返り、また身を置く現実世界との乖離を感じながら、その狂人としての人格を完成させたのです。
映画タイトルにもなっている「野火」とは、人間が野原を焼き払うときにたちのぼる炎であり煙です。野火のその先には必ず人間がいます。田村一等兵の意識や体はその野火の下にいる人間に向かいますが、それはその人間たちを殺し食べてでも生き延びたかったからなのかもしれません。
野火の映画は実話だった?原作小説も紹介!
野火は、原作者の大岡昇平が実際にフィリピンで味わった壮絶な戦争体験を基に創作されました。今回の映画『野火』では、前作に比べて、原作の構成が忠実に再現されています。さらに大岡は幼少時代キリスト教に色濃く影響を受けており、主人公の田村一等兵を支える原作のさまざまなシーンでは、その跡が見られる記述が多数残っています。
「私がフィリピンの戦場で、叢林中に一人取り残された時、敵を射つのを放棄したのは自然のことだった。(中略)あの時、ほかの方面で銃声が起り、米兵が立ち去ったことに、神の摂理のようなものを考えたのはごく自然だった」
野火の映画を観た人の感想を紹介!
本当の戦争とはを知りたい人へ!
描写がリアルすぎて、気の弱い人にはあまり薦められないが、フィリピンで日本軍人の若者たちが、遠い故郷を思いながらどんな死に方をしたのか知りたければ、塚本晋也監督版の映画『野火』を観るといい。「英霊」「散華」「散った」等の戦死を美化する戦中価値観の語彙からほど遠い、本物の地獄だった。 pic.twitter.com/NDPQtn4pWW
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) August 12, 2018
戦場での殺しあいの凄惨さという観点で、軍内部の統率と忠誠心という観点で、また戦渦の市街で被災する罪なき一般市民からという観点で。戦争の悲惨さを描いた映画は数あれど、戦地に取り残され、見捨てられ、飢えや味方集団含めたあらゆる孤立から内的な心情を抉ってくる作品は多くありません。現代を生きる私たちが直視するべき本当の戦争を知るために、映画『野火』は必見の映像だという感想が多数でした。
好意的な意見をネタバレ!
塚本晋也監督・脚本・製作・主演2014年の「野火」を。大岡昇平原作。第二次世界大戦末期のフィリピン、生と死を彷徨う男の物語。88分。塚本作品ならではのグロあり。しかし何よりグロテスクなのは戦争という名の不条理な地獄だ。塚本監督のエネルギーに圧倒された。必見。 pic.twitter.com/hL5vZGZAwa
— shinichi A BE-AR (@purissima_bear) August 15, 2018
塚本晋也監督がガリガリの体躯となってまで演じ、映画『野火』のなか鮮やかな映像で浮かび上がらせたグロテスクさ悲惨さより、戦争そのものが持つ不条理さ、その目的や概念や歴史のグロテスクさを感じとった人々が何より多く、高評価の感想をつける結果となっています。
映画で印象的な食事、市川崑監督の『野火』で主人公が現地人の部落で見つけた塩をほかの日本兵がなめて涙を流す場面が好きですね
— 大久保鉄山 (@makoto_ookubo) September 15, 2018
『野火』というとほかの食事場面が強烈だし話題にもなるけど、「塩で泣く」という当時の兵隊たちの窮状を表すこの場面があるからこそ後の展開が活きてくるのだと思う
あらすじの構成や場面展開としては非常にシンプルであり、用意されたさまざまな伏線の回収も、観る人にとっても容易なものになっています。観る人を当事者レベルにまでたぐり寄せるこの映画のちからあってのものですが、その立場に共感すればするほどに、観る人の感性を刺激する、そんなニュアンスの感想が多く見受けられました。
否定的な意見もネタバレ!
レコーダーの肥やしと化していた大岡昇平の野火ようやく消化
— 中村うなぎ (@Yips_Barracuda) September 14, 2018
自分史の中でも屈指の鬱映画
誰もが知っておくべき戦争の悲惨さという題材のため、あらすじについて直接的な否定の意見は少ないです。しかし、その映像の鮮烈さとグロテスクさから、それが好評だった一方、苦手とする人たちからは非常に鬱々としたもので観るのに一定の覚悟が必要な、あまり観たいものではなかったという感想や、苦痛であらすじを追うのが精一杯といった感想も少なからずありました。
野火の映画あらすじネタバレまとめ!
映画『野火』のあらすじについてネタバレでご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。ただあらすじのネタバレといっても、ラストの判断や感想は結局観る人に委ねられており、その回答はこれから先の未来づくりに活かしていく他ありません。
映画『野火』の主人公・田村一等兵は、ただ人間らしく生き抜くことだけを望みました。しかし自分自身の孤独や戦争による殺人、食人の欲求とその葛藤、そして味方でさえ騙し食糧とし殺しあうというような現実は、彼をとことんまで追いつめていくのです。「この世は神の怒りの跡にすぎない」。
自分はさながら天使。しかしそれとは裏腹に、食人をしたかっただけなのか。その境地まで追い込まれたとき、人は正気を保つことなどできるのでしょうか?また、果たして正気とは、どの世界のどの人の状態を言うのでしょうか?『野火』の映画の主人公のように、永遠に思考することの大切さを思わせてくれる、久々に「匂い」がするといった感想が持てる映画だといわれています。