湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンは火葬?最後に煙が上がっていた意味は?

2016年に日本を席巻した映画・湯を沸かすほどの熱い愛について考察をしていきます。ラストシーンは果たして火葬だったのでしょうか。またラストシーンで煙が上がっていた意味は何だったのでしょうか。映画・湯を沸かすほどの熱い愛の物語がもたらした意味から宮沢りえ演じる主人公はどのように世界を愛し抱擁したのでしょうか。あらすじとネタバレを交えて解説・ご紹介をいたします。

湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンは火葬?最後に煙が上がっていた意味は?のイメージ

目次

  1. 湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンは火葬?ラストの意味をネタバレ考察!
  2. 湯を沸かすほどの熱い愛とは?
  3. 湯を沸かすほどの熱い愛のあらすじを紹介!
  4. 湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンは火葬?足が出てるという噂も?
  5. 湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンの赤い煙の意味とは?
  6. 湯を沸かすほど熱い愛のラストシーンについてまとめ!

湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンは火葬?ラストの意味をネタバレ考察!

2016年の日本映画界を席巻し、数多ある賞を受賞した映画・湯を沸かすほどの熱い愛。今回はその映画・湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンから最後の火葬は一体どういう意味だったのか。ラストの意味をネタバレ考察していきます。

湯を沸かすほどの熱い愛とは?

湯を沸かすほどの熱い愛の公開は2016年10月29日!

映画・湯を沸かすほどの熱い愛は2016年10月29日に公開された日本の映画になります。監督と脚本は中野量太になります。2016年の同時期の秋には映画デスノート Light up the NEW Worldが上映されています。また11月11日には日本のアニメ史に残る名作、この世界の片隅にが上映されています。

湯を沸かすほどの熱い愛の監督は中野量太

湯を沸かすほどの熱い愛の監督と脚本を担当したのは中野量太は1973年7月27日生まれ京都府出身の映画監督です。湯を沸かすほどの熱い愛が商業映画デビューになります。大学を卒業後上京して日本映画学校に入学をしています。2000年の卒業制作「バンザイ人生まっ赤っ赤」において、日本映画学校今村昌平賞を受賞しました。卒業後、映画・テレビの助監督やテレビのディレクターを務めていました。

2006年には「ロケットパンチを君に!」で6年ぶりに監督業を行い、ひろしま映像展グランプリや水戸短編映像祭準グランプリ等の賞を受賞しています。2008年には文化庁若手映画作家育成プロジェクトに選出をされています。2012年自分自身の長編映画「チチを撮りに」においてSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で監督賞とSKIPシティアワードのW受賞をしています。

さらに同作は第63回ベルリン国際映画祭ジェネレーション部門に正式に招待をされました。以後も、同作は多数の国内外の映画祭に招待をされています。そうして2016年に湯を沸かすほどの熱い愛で商業映画デビューを果たすのです。

湯を沸かすほどの熱い愛は数多くの賞を受賞した

湯を沸かすほどの熱い愛は第40回モントリオール世界映画祭・Focus on World Cinema部門、第21回釜山国際映画祭・アジア映画の窓部門、第29回東京国際映画祭・Japan Now部門正式出品作品になります。また第40回日本アカデミー賞では6部門受賞、内2部門では最優秀賞、第41回報知映画賞、第31回高崎映画祭、第26回日本映画批評大賞ではそれぞれ4冠、第38回ヨコハマ映画祭では3冠を達成しています。

また高校時代の同級生にはブラックマヨネーズの吉田敬やタレントの六車奈々がいます。非常に才能豊かな映画監督です。また、湯を沸かすほどの熱い愛の小説を監督本人が書き下ろしています。

湯を沸かすほどの熱い愛の主演は宮沢りえ

主演を演じたのは宮沢りえです。宮沢りえは1973年4月6日生まれ東京都練馬区出身の女優です。身長は167cmで血液型はB型になります。日本人の母親とカナダ人の父を持つハーフです。また夫はジャニーズ事務所所属のアイドルグループV6の森田剛になります。若い頃はアイドルとして活動していましたが2002年には映画「たそがれ清兵衛」によって本格的な女優としての道を歩み始めました。

彼女のアイドル時代は映画「ぼくらの七日間戦争」への出演や篠山紀信によるヘアヌード写真集「Santa Fe」によって知られています。彼女の出演した映画「ぼくらの七日間戦争」は宗田理のヤングアダルト小説が原作です。中学生の僕らが突然遠い昔の全共闘のまねた「解放区」を作り出す少年少女たちのひと夏の冒険的な映画です。また「Santa Fe」は当時18歳だった宮沢りえがヌードになったことでも話題を呼びました。

また当時人気を博していたコントコンビのとんねるずのテレビ番組「とんねるずのみなさんのおかげです。」に出演をしていました。その時はCMキャラクターの”白鳥麗子”と同じ名前で出演をしていました。力士の貴花田との婚約を発表しましたが、わずか2ヶ月で婚約解消をしています。

また舞台での活動をしていました。「透明人間の蒸気」や「ロープ」、「パイパー」、「キャラクター」、「THE BEE」など野田秀樹の演出する舞台に出演しています。三谷幸喜の作の戯曲「おのれナポレオン」では天海祐希の代役を務めています。

たそがれ清兵衛について

映画・たそがれ清兵衛は藤沢清兵衛の小説・たそがれ清兵衛、祝い人助八、竹光始末を原作にしたと山田洋次監督は語っています。この映画は時代劇のリアリズムに光を当てて成功した映画です。最後の清兵衛と善右衛門の戦いはスリルがあり00年代時代劇映画の最高傑作の一つと称されてもおかしくありません。

映画・たそがれ清兵衛で宮沢りえは飯沼朋江を演じました。その少しやつれたような姿が美しく、宮沢りえが本格的な女優に目覚めた、と当時の観客は思ったそうですが、実は当時すでに宮沢りえは舞台などの勉強をしていて活動の場所を変えていたのです。メディアに出てこないからといって、活動していないわけではありませんでした。

オダギリジョー

オダギリジョーは映画・湯を沸かすほどの熱い愛では一浩役を演じています。オダギリジョーは1976年2月16日生まれの岡山県津山市出身の俳優です。2000年にはテレビドラマ・仮面ライダークウガの主人公・五代雄介役に選ばれて一躍ブレイクします。仮面ライダーの新シリーズにはイケメン俳優が抜擢されると噂にもなりサブカルチャー界隈でも話題になっていました。

子供のころから映画少年で将来は映画俳優になろうとしていたそうで、現在もシネフィルらしい顔を隠すことはありません。好きな映画監督はジム・ジャームッシュやフェデリコ・フェリーニ、コーエン兄弟、黒澤明、勝新太郎、北野武、ヴィンセント・ギャロ等だそうです。またジム・ジャームッシュ監督の「ダウン・バイ・ロー」を自身のベスト1に上げることが多くあります。

2003年の北村龍平監督作「あずみ」ではあずみの宿敵になる変態的天才剣士、最上美女丸を演じています。また崔洋一監督作「血と骨」では主演のビートたけしとの過激な喧嘩シーンによってキネマ旬報の助演男優賞を受賞しています。犬童一心監督作「メゾン・ド・ヒミコ」ではゲイの男性を西川美和監督作「ゆれる」では兄弟の弟役を演じています。

杉咲花

助演の杉咲花は1997年10月2日生まれの東京と出身の女優です。子役から出発しています。2013年にはテレビドラマ・夜行観覧車で家庭内暴力に荒れる娘役を好演して、以降ドラマや映画に多数出演しています。またNHK連続テレビ小説・とと姉ちゃんではヒロインを演じた高畑充希の妹を演じています。

米林宏昌監督作品「思い出のマーニー」では綾香役を、「メアリと魔女の花」では主人公のメアリ役を、三池崇史監督作品「無限の住人」では浅野凛と町の二つの役を演じています。松永大司監督作品「トイレのピエタ」ではヒロインの宮田真衣を演じています。また佐藤伸介監督作品「BLEACH」では朽木ルキア役を演じています。

松坂桃李

湯を沸かすほどの熱い愛で助演を担当した松阪桃李は1988年生まれ神奈川県茅ヶ﨑市出身の俳優です。桃李の名前の由来は中国の歴史家・司馬遷の「史記」と中国の故事、「桜梅桃李」からの2つの由来があるそうです。父は、徳のある誰からも慕われる人、母からは、自分らしさを大切にしてほしい、という願いがあるそうです。ファンからは愛情深い話として知られています。

デビューはテレビドラマ・侍戦隊シンケンジャーであり、その後、テレビドラマ「仮面ライダーディケイド」にも出演しています。「アントキノイノチ」「僕たちに世界を変えることはできない。」によって第85回キネマ旬報ベスト・テン新人男優賞と第33回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞しています。

湯を沸かすほどの熱い愛のあらすじを紹介!

夫が蒸発

湯を沸かすほどの熱い愛の物語は「夫が蒸発したので休業します」という張り紙と共に始まります。夫の一浩(オダギリジョー)とともに銭湯を営んでいた双葉(宮沢りえ)はこのような、突然の夫の蒸発によって、銭湯の営業を休んでしまいます。そうして現在はパン屋のアルバイトをこなしながら少しぼんやりしたところのある娘の阿澄(杉咲花)を養うシングルマザー生活を営んでいました。

双葉が末期がんに?

湯を沸かすほどの熱い愛のあらすじを紹介していきます。ある日パン屋で勤務をしていると、突然双葉は立ち眩みをして倒れてしまいます。すぐさま病院で検査をしてみると、驚いたことに末期がんと宣告をされてしまいます。

思わず嘘ですよね、と言いたくなり呟きたくなるスピーディーな展開です。そして余命は2~3ヶ月しか残されていないことさえ宣告されてしまうのです。当然落ち込む双葉、それはそうです、自分の命が残り少ないということを知るのですから。

娘を立ち直らせる

湯を沸かすほどの熱い愛の序盤以降のあらすじです。しかし双葉には落ち込んでいる暇はありませんでした。それは自分の周囲には問題が多すぎるからです。まず父親である一浩の失踪と娘を立ち直らせること、それから銭湯を復活させることから始めます。まずいじめに遭ってしまい、不登校寸前の娘を立ち直らせることから双葉は開始しました。

阿澄のイジメについて

引き続き湯を沸かすほどの熱い愛に登場する阿澄は絵を描くことが好きな、少しぼんやりしたところのある子供です。授業中に林檎の絵を写実的に克明に描いていると、上手い上手いといいながら、阿澄の絵の具のチューブから絵の具を全て出し尽くしてしまうのです。思わず手を払いのける阿澄。絵の具は散らばってしまい、阿澄は制服を汚してしまいます。

湯を沸かすほどの熱い愛で描かれた次なるイジメは阿澄の制服を同級生に隠されることでした。制服を隠されてしまい、ジャージ姿で授業を受ける阿澄。他の人とは違う姿を笑われる阿澄。しかし先生も「制服はどうしたの。」と注意をするだけでクラスで起こっているイジメを何とかしようという気持ちはありませんでした。阿澄が学校に行けなくなり、不登校寸前の状態にまで落ち込んでしまいます。

母、双葉のやり方

湯を沸かすほどの熱い愛の中盤のあらすじです。イジメによって蒲団から這い出ることも出来無い状態の阿澄に対して、双葉は「戦わないとだめだ。今逃げたら一生後悔することになる。」と伝えます。そうして戦うことがいかに大事か、を伝えます。阿澄はいやいや学校に通います。そうして阿澄は戦うことを決意するのです。

その後湯を沸かすほどの熱い愛で、制服を隠された阿澄はジャージ姿で授業を受けていますが、そこで先生に注意をされます。阿澄は制服を脱ぎだします。そうして「制服を返してください。」と伝えます。阿澄の行動に驚いた同級生や生徒たちは、阿澄に制服を返すことになりました。阿澄は母である双葉に感謝をしました。

母に感謝をする阿澄でしたが、双葉は次に失踪した自分の夫を探しに出かけました。といっても何処にいるか分からないので探偵に頼んだそうです。するとあっけなく見つかりました。そうして阿澄の父親を連れ戻すことに成功しました。ただ父親の一浩は鮎子(伊東蒼)という子供を連れていました。その子供は要するに阿澄の妹になるのですが、母である双葉は気にせず受け入れてしまいます。

銭湯を立て直す

母は1年前の蒸発をした夫を探すために、子連れ探偵の滝本と会うことにしました。その夫は隣町に住んでいることが意外とあっさりわかります。実は滝本探偵の奥さんは、1人娘である真由を出産する時に脳卒中で亡くなっていたのです。そうして真由は亡くなった母親は天国という遠い場所か自分たちを見守っていくれていると信じているそうです。

帰宅をした二人は、西伊豆の坂巻君江から毎年届く、恒例のタカアシガニを食べました。そうして双葉は家のルールである、ということで阿澄にお礼の手紙を書くように言いました。双葉はいつか必要になったときの為に阿澄に水色のブラジャーをプレゼントするのです。

夫である一浩は新聞配達をしながら生計を立てています。夕刊の配達までの2時間、一浩はカレーを作るのです。そこに突然一浩の住む2Kのアパートを訪ねてきました。探偵がすでに見つけていたのです。驚きを隠さない一浩に対して、双葉はお玉を奪い、頭を叩きます。すると一浩から血が出ました。

家族でしゃぶしゃぶを食べる4人、そこには1年前に蒸発して出ていったはずの父親がいました。さらにランドセルを背負った9歳の鮎子の姿もありました。一浩は事情を話し出します。

旅の途中で旅人と出会う

双葉と阿澄は一泊二日の旅にでます。旅の途中で、ヒッチハイクの生活をしている向井拓海(松坂桃李)に出会います。向井拓海は嘘をつきます。かれは北海道からヒッチハイクをしながら旅行をしていました。乗った車は39台目になるそうです。向井拓海は明るく顔も良く、爽やかで、面白い話をすることも得意であり、人の心の隙間に入り込むのがとても上手でした。

しかし本当の拓海は違いました。双葉が家族について尋ねてみると、自分には三人目の母がいるということでした。産みの母の顔を思い出せません。腹違いの弟が2人いて、父親は建設会社の社長であり、かなりの資産家だったそうです。拓海は時間はたっぷりあるので目的もなく旅をしていたのでした。

ゆこの青年は嘘が多く、嘘を吐かなければ生きていけないような生活をしていました。それに対して双葉は生き方を諭します。そうして双葉は拓海を自分の子供のように抱きしめるのです。それが良いことなのか、分かりません。何故なら人の生き方はある程度自由ですから。しかしそれでも敢えて人生を諭し向井拓海を抱きしめることこそ、双葉がやるべきことだったのです。

阿澄の実の母との再会

阿澄は旅行を楽しみました。途中のドライブスルーでカニを食べるなどご馳走を満喫した阿澄と双葉でしたが、実はそこで働いている女性こそ阿澄の実の母親だったのです。その女性はなんと耳が聞こえませんでした。生活苦から子供を捨てたのでした。そうしてその子供を養子として育てたのが現在の母の双葉だったのです。それを阿澄はこの旅行で初めて知らされるのです。

実の母は耳が聞こえません。その時、阿澄は自分が手話が出来ることを知ります。実の母が理由を尋ねると、阿澄はお母さんが教えてくれていた、と実の母に手話で伝えるのです。このシーンで阿澄は泣いていました。ただ再開の後も旅行は続きます。

双葉の義務感

双葉は義務感に駆られるように、自分と関わる人たちに自分の思いを伝えますが、その思いが人の心に徐々に浸透していくのです。そうしてその思いは双葉の夫を探してくれた探偵の心も解きほぐしていきます。しかし無理がたたったのか、双葉は倒れてしまうのです。そうして病院で治療が開始されます。しかし末期がんといいう話だったので、命は決して助かりません。

双葉は母にであう

湯を沸かすほどの熱い愛の終盤では死の直前、双葉は実の母に出会わせてもらえます。実の母は老人ホームで生活をしていました。

かつて自分をすてた母の姿を見て、怒りをもって物を投げる双葉。感情が暴力となって発露する瞬間です。その姿をみておんぶをして連れてきた向井拓海は背負って逃げていきます。その後何が起こったのかは分かりません。

助けてもらった人たちの思い

助けて貰った自分たちがいかに助かったのかを伝えるために父である一浩は組体操を始めます。そうして自分たちに出来ることはこれくらいだ、と伝えるのです。その姿は人は人を楽しませるためには手段を選んでいないことが分かります。思いを伝えるのには感情があれば十分なのです。そのような人生の真理に気付かされる一シーンであり名シーンといえるでしょう。

ラストには火葬になったらしい双葉を送る家族がいました。向井拓海も銭湯を立て直すために従業員になりました。ラストの最後のエンドロールにはきのこ帝国の愛のゆくえが流れてきます。この楽曲は中野量太監督がきのこ帝国に頼んでエンディングテーマ曲として作ってもらった曲だそうです。

湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンは火葬?足が出てるという噂も?

ラストシーンは火葬?

ここからは湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンについて考察していきます。まずはラストの火葬のシーンの意味についてです。湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンは主人公の双葉の火葬という説があります。

そこからは足が出ているという噂もあります。もし足が出ているとすると実際に双葉を火葬してしまったことになります。冠婚葬祭の形式において個人で火葬をすることは殆どありません。

ラストシーンの火葬は儀式

湯を沸かすほどの熱い愛のラストの火葬のシーンの意味についてです。それは彼女の死がパーソナルな部分が大きいというところです。その為、最後の赤い煙が双葉を送る煙であることが映像として観客に強く伝わるよう演出がされています。どこか感情のタガが壊れた愛情表現ですが、彼女の行動に対する対価を家族たちは払ったという奇妙な表現としても成り立ちます。

本当に足は出ている?

ラストの火葬のシーンの意味についてです。さて足は本当に出ているのでしょうか。実際に足が写っているかまでは確認ができませんでした。とするとやはり赤い煙が出ているシーンから勝手に観客が判断をした都市伝説の類なのかもしれません。敢えて赤い煙を出すことで見る人に判断をゆだねているのでしょう。

湯を沸かすほどの熱い愛のラストシーンの赤い煙の意味とは?

ラストの赤い煙の意味とは?

ラストシーンの火葬に意味についてです。ラストに主人公の双葉を火葬した際に、煙が赤く立ち上っていくのですが、通常煙は黒色白色灰色という色で構成されています。そこに赤い煙が立ち上ることに疑問を感じる人がいても可笑しくはありません。赤い煙は血の色であるとも想像できますし、火葬された双葉の愛の色(もし感情に色があるのなら)なのかもしれない、とイメージが出来るのです。

ラストは銭湯の再開の象徴をしている

ラストの火葬の意味についてです。自分たちの銭湯で火葬をするということは、自分たちで双葉を送るための儀式になります。その儀式は自分たちのためというよりも、双葉の為だったのかもしれません。送る側の気持ちと亡くなった人の気持ちがどのように繋がるのか、という気持ちが銭湯を再開させたかった双葉の気持ちを銭湯で火葬することで遺された家族たちが受け入れたという演出がされているようです。

不評な感想を紹介!

イジメのシーンの意味についてです。湯を沸かすほどの熱い愛の不評な感想には、一つには阿澄がクラスで深刻なイジメを受けているシーンと母である双葉が「それでも学校に行け」や「逃げたら負け」という頑張らせ方に、こころがモヤモヤとして拭い去れないというものでした。

イジメのシーンの意味についてです。この映画の主人公はあくまで「お母ちゃんの生き方」を「娘の視点で描く」ことにあるので、もしかしたら娘のイジメのその後の描写は必要ない、と監督は考えたのかも知れませんが、イジメによって自尊心を踏みにじられる経験を何度もされてしまったか、を想像すると母親ならずとも哀しく苦しい気持ちからのがれることが困難になります。

イジメのシーンの意味についてです。これには母親という視点からならずとも同級生の娘でも、イジメを見るのは哀しい気持ちになるのです。母の考え方である「戦い続けることの大事さ」「逃げても何も変わらない」という現実はそもそも母の人生の信条だからこそ自由なのです。しかし娘や子供は自分とは違う生き物です。

イジメのシーンの意味についてです。自分が過去に経験して、戦い続けることで辛さや悲しみを克服してきたことによる根性論に対して、別の個性や生き方(この場合は母親になるので完全に別の生き物や生き方というのには難しく、それが母と娘の問題のテーマにもなっています)を押し付けるのは、何処か違うのではないでしょうか。

そもそもあれだけひどい状況の中で、クラスの担任はあきれるほど何もせずに、イジメられている阿澄の方をなじっていますし、クラス全体も無視をしています。本人が休みたいのならば、休んでもいいという判断があってもいいだろうし、逃げたいのなら逃げてもいい、というのが個人の判断を尊重するということになります。

何故なら、先生までイジメがない、と理解しているクラスでは問題が解決することなど期待できないからであり、ここには自己責任や個人の判断という行動さえ意味をなさない可能性があるからです。湯を沸かすほどの熱い愛のイジメはある程度設定の部分があります。

しかし高校生に母親の意見を押し付けられて、戦うことを名目にサボることもせずに親に言われた通り、わざわざ苦しい思いをして、学校に行ってしまう子供は、心優しくまじめな部分があり、それゆえ何処か危ない感じがします。湯を沸かすほどの熱い愛の阿澄は映画の設定上、強くはなっていきます。一応イジメを克服していきます。

しかし、見方を変えれば、自分よりも悲惨な子供(父の連れ子である鮎子のことを指す)が家族に加わったことにより、一時的に自分の事を棚上げされていたことにより「言いたいことも言えなくなってしまっているけなげな長女」を演じている部分もあるのではないでしょうか。

イジメは解決が難しい問題であり、それをどのように解決していくか、を提案すること自体物語上困難な所があります。それは幸福な物語の中ではいじめは殆ど起こりえないし(そもそもストーリーにテーマがある以上、その行為がイジメかどうか判断するのは観客、つまり第三者になってしまう)、起きていても本人たちは理解出来ません。

一方、母の物語の中では戦いの末、相手を愛することを選択しています。阿澄の中には母がいる為、幸福感が感じられるイメージを観客たちは得られていますが、必ずしも戦うだけが一つの道ではない、と考えられます。逆に強い母によって縛られてしまう娘や子供も存在することを忘れないほうが良いでしょう。

さらに母親の双葉が今更娘を実母に合わせるというのも不評がありました。映画の筋書きとしては会う演出は分かりますが、今更出会ってどうしようというのでしょう、というものでした。しかも数分前に実母であることを告げられるのです。娘からすれば今更なんだ、という気持ちでしょう。

そんな整理できないだろう感情のまま、同じ立場ならば観客とすれば怒ってしまいます。母親の独善的な愛情が感じられます。自分の思いを踏まえて、という感情は分かりますが、娘に選択肢がない状態なのも見る側からすると分かりにくいです。母親が勝手な感情を持ちすぎだと捉えられます。

好評な感想を紹介!

この映画は難病ものとしても捉えられます。その為、「生きる」との対比がみられます。生きるも主人公が癌であることを知ったあと、ラストに自分のすべき使命に気付く映画です。「湯を沸かすほどの熱い愛」の方が主人公の感情をむき出しのまま描いているのに対して、「生きる」の方は死を知った主人公の苦しむシーンがラストまで描かれていません。

評価はそれぞれでしょうが、「生きる」の方がラストまで苦しむシーンを描かなかったことにより感情が心情的に描かれているのに対して、「湯を沸かすほどの熱い愛」は感情の表現が直接的であり、よりパーソナルに描かれています。「生きる」が人生を描いているのに対して「湯を沸かすほどの熱い愛」は感情を描いているようです。

この映画の評価の高さに新人監督の商業作品第一作目で尚且つオリジナル作品で、高い完成度にあります。この作品を見て業界はざわつきました。この才能を無視は出来る人は殆どいないだろうということは分かります。キャストに宮沢りえや杉咲花、オダギリジョーや松坂桃李等優れた才能ある役者がそろったことも理解出来ます。

また主演の双葉を演じる宮沢りえの演技も良いと評判です。若い頃にデビューをした後、舞台で活躍をしていた彼女ですが、同年には宮藤官九郎監督による「TOO YOUNG TO DIE!若くして死ぬ」にも主人公の同級生役の手塚ひろ美の大人になったときを演じています。確実に女優としてのキャリアを歩んでいる優れた俳優の演技だと絶賛されています。

その宮沢りえの演じる「おかあちゃん」が凄い役でした。病気の状態のまま、娘の前では気丈に振る舞い、強く一人で生きていけるように戦うことの大事さを成長させていきます。突然お玉で旦那を殴りつけるシーンやその旦那の連れ子を受け入れる度量の大きさも「おかあちゃん」の愛の深さを感じられます。

娘の杉咲花もいじめられっ子として、弱さを出しながらも、イジメに立ち向かうことで少しずつ強くなろうとする意志が感じられます。自分がいじめられていることを周囲にバラすのはとても勇気がいることで、無謀な点もあります。しかしイジメを視認し難い日本のイジメの現状では、困難なことのほうが多く阿澄の決断は闘う意志を示した行動だと考えられます。

前述した「生きる」のような闘病ものといえるのですが、その描写が少ないのも特徴です。普通に自動車を運転していたりするからです。普通の判断では病気の人間に自動車運転をさせることはないでしょう。しかしそれさえも周囲に受け入れさせる気丈さこそが双葉の愛であり、少しずつ弱っていく姿をコミカルに厳しい現実を交えて描いています。

ラストに家族の秘密が明らかになることで、何故主人公の双葉が子供を連れて、ドライブに出かけたのかが分かります。しかし難病ものである部分は描写が少なく、基本的に母の愛の大きさを伝えるためにスパイスの一つでしかないからです。そこに気付くことで観客は自分が感動していることに気付くのです。

また湯を沸かすほどの熱い愛は脚本や演出の妙が細かいのも特徴です。好きな色が赤、という発言からラストのカーネーションに至るまで、全て物語上の伏線となって成り立っています。観客が気付きやすいように、言葉と言葉が繋がりやすくなっています。その為最後の赤い煙にさえ大きな意味がある、と観客は思わされるのです。

湯を沸かすほど熱い愛のラストシーンについてまとめ!

今回は湯をわかすほどの熱い愛のラストシーンについて、まとめてみました。細かい演出が施されているからこそ、最後のシーンにも意味が付随すると思わせる演出力は破格だと考えられます。母の愛は湯を沸かすほどの沸騰観があり、それは温泉という場所だからこそなりえた表現だったのではないでしょうか。とても興味深い映画ですので、ぜひ一度ご覧ください。

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