バードマンの映画あらすじ!ラストシーンの意味と結末をネタバレ考察

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の傑作映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)のあらすじと難解と言われているラストシーンの意味について徹底考察。まだ『バードマン』を観ていない方にも、もう『バードマン』を観て悩んでいる方にも、わかりやすく映画のあらすじからラストの身構え方まで要所要所にネタバレを含めつつじっくり解説いたします。

バードマンの映画あらすじ!ラストシーンの意味と結末をネタバレ考察のイメージ

目次

  1. バードマンの映画あらすじをネタバレ!ラストシーンの意味も考察!
  2. バードマンの映画あらすじをネタバレ!
  3. バードマンの映画結末をネタバレ!
  4. バードマンの映画のラストシーンの意味とは?
  5. バードマンの映画を見た人の感想・評価を紹介!
  6. バードマンの映画あらすじまとめ!

バードマンの映画あらすじをネタバレ!ラストシーンの意味も考察!

ヒーローものの映画なのか。ヒューマンものの映画なのか。あるいは誰かが観た悪夢のようなものなのか。ブラックコメディのその文字に揺らされながらトレーラー映像を観ただけではうまく調子が掴めず、実際に観てみても臨場感溢れるサウンドと共にほとんどカメラが瞬くことなく長撮りのまま進んで雲の上を歩くような名作。そんなミステリアスな雰囲気をもつ映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を皆さんはもうご覧になったでしょうか?

本日はこの『バードマン』のあらすじや評価、ラストシーンにまつわる様々な考察について、じっくりとネタバレを挟みながらお届けいたします。

映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』オフィシャルサイト| 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント

バードマンの映画あらすじをネタバレ!

リーガン・トムソン 最後の挑戦としての「舞台」

「この人生で望みを果たせたのか?ー果たせたとも。ー君は何を望んだのだ?ー”愛される者”と呼ばれ、愛されていると感じること」そんなレイモンド カーヴァーの 詩集『愛について語るときに我々が語ること』(1981)の一節からはじまるこの映画の主人公は、かつてのハリウッドスターという落ち目に来ている役者リーガン・トムソン(マイケル・キートン)です。

リーガンはかつて「バードマン」シリーズというブロックバスター映画で一躍スターとなりましたが、20年の時を経てその人気と地名度は下落し、家庭は離婚と娘の薬物中毒などで疲弊。どん詰まりのリーガンはふと心の中に宿った「バードマン」の声に急かされるように舞台の道へと歩みます。

舞台の演目はカーヴァーの『愛について語るときに我々が語ること』。再起を図るリーガンは弁護士には親友を、共演者には現在の恋人を、そしてアシスタントには愛娘をと自分に残ったもの全てを寄せ集めるようにして、この舞台の演出を自ら考えそして主演も果たそうとします。その彼を支えるのは何処か急かすようなアントニオ・サンチェズのドラムロールメインのサウンドであり、これからの展開を暗喩するようでもあります。

マイク・シャイナー 彼にとっての日常としての「舞台」

舞台の準備は着々と進みプレビュー公演を目前に控えたある日。リハーサルの演技中に出演者のラルフが負傷したことによって事態は深く深く暗くて激しい方向へと転がっていきます。なんと、幸運にも、そして不幸にも、ブロードウェイのミュージカルで現役として活躍しているまだ若々しく名声も持っているマイク・シャイナー( エドワード・ノートン)が、ラルフの代わりに出演してくれることになったのです。

マイクは、とてもブロードウェイの芸術に親しみその芸術を愛する上で完璧も求めました。その結果、映画の元スターにして「記憶される芸術」の落し子であるリーガンと意見が対立。この不死鳥のようにあらゆるものへの復活と記憶されることに固執するリーガンが気に食わないと言わんばかりにリーガンの演出を「偽物だ」と罵り、「舞台芸術的演出」を求めてプレビュー公演をひっくり返してまでリーガンに違を唱え、自分の才能を見せつけるのです。

彼やブロードウェイの評論家たちが持つ「評価される芸術」とリーガンが必死でしがみつきそれが正しいと思って来た「記憶される芸術」。このふたつの溝が深くなり、ぶつかり合ってついに"ある"事件は巻き起こります。

サマンサ・トムソン 彼女にとっての非日常にいる「父親」

リーガンの横でマイクとの対立や複雑に絡む男女間の仲を目にし、薬を燻らせる少女サマンサ・トムソン。彼女こそ、リーガンが崩壊した家庭の最後の一雫として大切にしたかった愛娘なのですが劇中ではそのほぼ全てが裏目に出ます。「 愛する妻が隣にいるのに、その顔を見ることができない。愛する妻が心配なのに、この目に映らない― 」そう舞台の上で何度も何度も語りかけるリーガンとそれを偽りだと罵るマイク。

「 俺の人生の一大事に、足を引っ張るな! 」その言葉のようにリーガンの目に映らない彼女の虚ろに軽蔑の混じった父親への視線は激怒を買い、ふたりの仲は絹布のように裂かれていくのです。そのやりとりものめり込むと胃腸にくるシーンですが、退いてみれば滑稽でシニカルな笑いの綱渡りをしている点にもご注目ください。

ネタバレあり 不運にも、"評価"されてしまった狂気

周りの理解を得られずあまつさえ、自分が信じこの舞台で再出発を図ろうと努力して生み出した「芸術」を非難されたリーガン。または、娘のサムの「カーヴァーの舞台を観に行くのは金持ちの老人ばかり」という言葉に自分を重ねるリーガン。様々な錯乱と疲弊で気を抜いてしまったリーガンは、最後のプレビュー公演中に不運にも、あるいは幸運にも、衣服室からバックヤードに締め出されてしまい、はだけたローブも脱げて下着一枚のままブロードウェイの街並みを歩くことになってしまいます。

このスキャンダルはSNSを通じてかつてリーガンを崇めるように持て囃した誰でもない大衆によって動画が拡散され、YouTubeで100万回以上も再生されてしまいます。あれだけ、苦渋を舐めてでもリーガンの求めたマイクの言う強烈な「評価」をこの狂気的な一夜で掴みかけてしまったのです。ここから「バードマン」の囁きはより強烈な言葉としてリーガンの心を病ませていきます。

バードマン 映り続け記憶されるものの「舞台」

本公演の前夜、追い打ちのようにブロードウェイの大手評論家でもあるニューヨークタイムズのタビサ・ディッキンソン(リンゼイ・ダンカン)がリーガンに今回の公演の酷評を予告します。彼女の一言で興行数が決まってしまうような世界。その支配者的存在からの非難の言葉はリーガンを深く傷付け、滑り落ちるように、あるいは滑空するように狂気に誘い「バードマン」は再び舞台に上がろうとリーガンの手を引くのです。

「バードマン」の囁きに応えるように指を鳴らすリーガン。するとコミックヒーローの世界のような幻想的で過激な光景がリーガンの目を覆いはじめます。現実の舞台で「愛されない」と告げられたリーガンが「バードマン」として満たされようとするように、火の海の中を「バードマン」は自由に駆けてゆきます。そうして、本公演のラストシーンに"自動拳銃を持ったまま"舞台にあがるのです。

バードマンの映画結末をネタバレ!

超ネタバレあり 無知がもたらす予期せぬ奇跡

自分への発砲。そうして発露されたリーガンの思いを乗せた銃声と共に騒然となる客席。そして映画の世界ではあり得ない、至上の評価を示す万雷の拍手。気付けば病室で横たわっていたリーガンは新聞の一面に記された「無知がもたらす予期せぬ奇跡」という見出しの記事で自分が撃ったのが頭ではなく鼻であり、そして偶然の産物とは言え評価されたことを知ります。

「褒められることが愛されること」だと信じてきたリーガンの耳には、復帰を待ち望むファンの声が聞こえます。そうして鏡を見ると抉れ補正された鼻は「バードマン」のようで、彼はゆっくりと窓の外を飛ぶ鳥の群れを見、そして最後の決断を下すのです。その姿を後から病室に訪れたサムは笑顔を持って迎えます。その見上げた空に何が見えたのか。このラストシーンとあらすじについてもう少々後ほど考察してみましょう。

バードマンの映画のラストシーンの意味とは?

ネタバレあり ラストでリーガンはどうなった?

ラストシーンについて端的に説明すれば、窓から身を乗り出したリーガンのラストに待ち受ける結末は「死亡した」と考えるのが妥当だと推察されます。何故ならば、この作品中に登場する「バードマン」はリーガンの自己愛を象徴するエゴそのものであるため、当然本人に超能力や飛翔能力はないことは修理費用の請求などのシーンで見て取れるからです。恐らくはカメラ外には悲惨な事件とスクープがあった筈です。

しかし、ただ発狂して死んだ訳ではないと言うのが次項の考察のポイントになります。焦点は「何故跳んだのか」と「バードマンが何を象徴しているのか」です。この点についてネタバレを恐れることなく、あらすじをまとめていく形でラストシーンを詳しく考察してみましょう。

「ラストシーン」あるいは何故リーガン・トムソンは跳んだのか

リーガンを狂わせた決定的な事件はあらすじでご紹介した通り、大雑把に分けると「喉から手が出るほど欲した(家族からの尊敬を含む)愛情」「長く愛されなくてもその瞬間を評論家に肯定され愛される芸術と大衆に記憶され忘れ去られたとしても愛される芸術の対立」「不運にも下着で出歩いてしまったスキャンダル」そして「バードマンとして振る舞い撃ってしまった銃弾」の4つに絞られます。

これをそのまま安直に並べると跳んでしまった原因はいたって単純に「人生への絶望」と「錯乱状態による事故的自殺」とするのが妥当ですが、果たしてそうなのでしょうか?むしろ、跳んだ理由をただの一瞬で語り尽くしているのは『バードマン』ラストシーンのサムの表情なのではないかと推論して改めてラストシーンを観てみましょう。

「ラストシーン」最後に手に入れてしまったバードマンとしての翼

リーガン・トムソンが演じてきた「バードマン」という存在は彼にとっては希望であり「大衆に愛される存在」でした。この一抹の自己愛があったからこそ、最期までリーガンがその愛情に固執し、愛情の形を探してしまったのは言うまでもありません。その中でとても強烈な「歪んだ愛情」を示すシーンが劇中にはありました。そう、「不運にも下着で出歩いてしまったスキャンダル」と「バードマンとして振る舞い撃ってしまった銃弾」です。

彼は自分が意図しなかった恥や恐怖、狂気に任せた行動がブロードウェイという舞台においては「愛される」ことを知ってしまい、「バードマン」が暴走した、ないしはその希望のまま窓の外に身を投げ自由と永久的な愛情(=他者の視線と記憶)を手にしたのではないでしょうか。それを語るように、サムの表情はどこか尊敬に似たようで、歪みはしていますがそれまで父親であるリーガンに向けていた嫌悪や軽蔑ではないと取れます。

彼は、周囲からの愛情を得るためにリーガンは窓から跳び、そして自己愛の象徴である「バードマン」であるからこそ、「窓から外へ飛べてしまった」と推察するのが本文の主旨です。最後の最後でサムからの哀れみともとれる敬愛と愛情を受け取り空に舞い上がったであろう聴衆の声を枕にリーガンのエゴは満たされたという見方をすれば至極鋭利なブラックコメディとして『バードマン』のラストシーンは成り立ってしまうと言う訳です。

バードマンの映画を見た人の感想・評価を紹介!

予断を許さない迫力の長回し!

恐ろしいほどのワンカットワンカットが長く、まるでその場にいるような気分と焦りを煽る作風に手汗をかいた方は多かったのではないでしょうか?これは2013年の『ゼロ・グラビティ』でも同じく長回しによる緊迫感を演出したエマニュエル・ルベツキと、世界的ドラマーのアントニオ・サンチェズの手によるものであり、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督による巧妙な罠であるとも言えます。

まいった・・。流れに身を任せたいのに、
そうはさせまいと、迫り来る場面。
凄まじい程の圧力、迫力。
ぶちのめされたわ。

引き込まれるからこそリーガンの苦悩や葛藤に同調してしまうのはあるのかもしれません。畳み掛けるような台詞の羅列やサウンドを聴いてブラックコメディだと受け入れられるには相当な俯瞰が必要であるのは間違いなさそうです。

ユーモア溢れる作品だった!

映画、演劇界を皮肉った感じで、
スラング、下ネタ、ブラックコメディ、が抵抗ない方は楽しめると思います。
個人的に一番良かったのはエドワードノートンの怪演で
素晴らしい、笑わせてもらいました。

あらすじではややこしさを増すので名言を省いた点として、今作には「大衆映画vs舞台芸術」という根の深い問題が横たわっています。映画業界、舞台業界、ハリウッド、ブロードウェイその双方向を皮肉り笑わせにきているのが『バードマン』であるともいえ、リーガンの自己愛であると同時に映画への自己愛であるとも言えるのです。

マイケル・キートンが「バードマン」と言う皮肉

過去のバットマンというマントを付けたヒーローの
【老い方】わからぬまま、いや、分かってしまった現実を
受け止めるのは本当に本当に大変だろう。
半ばにその想いがひしひしと伝わってくる。

キャストについてあえてあらすじ内では触れませんでしたが、実はこの『バードマン』でリーガン・トムソンを演じたマイケル・キートンその人こそが、1989年のかつてのヒーロー『バットマン』を演じたという最大のブラックジョークが潜んでいたりします。この点は往年のファンの方の目にはどう映ったのでしょう?

難解すぎて面白くない?

陳腐である。あるいは、難解でただただ悲劇が続いてつまらない。あえてここでは引用はしませんが、そう称する言葉や評価が挙がるのは無理のないことだとは感じます。『バードマン』の穿つ角度は相当に鋭いものでありコメディらしさのカケラもないメリーバッドエンド一直線な作品ですので、あらすじやネタバレを読んで難しいなという場合は、敢えて一歩窓から踏み出して「鳥瞰」してみるのをおすすめします。

バードマンの映画あらすじまとめ!

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のネタバレやあらすじ、ラストシーンへの考察は皆さんいかがでしたか?考察や感想、評価の数は鑑賞する人の目の数だけあると思います。皆さんが本作を観て人間関係の悲劇と観えるか、ヒーローの落日と観るか、新しい形の芸術の最先端と観るか、ブラックコメディと観るかなど、様々な可能性に至ることが出来ることが『バードマン』の作品として魅力になっています。

百聞は一見に如かず。一度はこの作品を投げ出してしまった方も、大好きでしょうがない方も、まだ未鑑賞の方もこれを機にあの激動の2時間を空中遊泳を楽しむようにもう一度触れ直して頂ければ幸いです。

関連するまとめ

新着一覧

最近公開されたまとめ