2018年11月29日公開
2018年11月29日更新
わろてんかのモデル・吉本せいの生涯や人柄を解説!吉本興業の歴史も紹介
NHKの朝ドラとして2017年に放送された「わろてんか」は、吉本興業の創業者・吉本せいをモデルに描かれた物語です。吉本せいと夫吉本泰三(吉兵衛)の生涯や人柄、人物像に迫ると共に吉本興業の歴史についても紹介します。さらに、ドラマ「わろてんか」のあらすじをネタバレで紹介し、その他登場人物のモデルとなった人物についてもそれぞれ紹介します。そして吉本せいをモデルにした主人公てんを演じた葵わかなについても見ていきます。
目次
わろてんかのモデルの吉本せいについて徹底調査!
2017年、NHKの朝ドラとして放送された「わろてんか」の主人公には、モデルとなる人物がいます。葵わかな演じる主人公北村てんのモデルは、吉本せい、という女性です。せいは、夫・吉本吉兵衛と共に、笑いの殿堂・吉本興業の創業者です。今回はドラマ「わろてんか」のモデル、吉本せいについて、人柄や生涯を紹介していきます。また、せいの夫・吉本吉兵衛についても紹介します。
わろてんかに原作はある?
ドラマ「わろてんか」に原作はありません。吉本興業の創業者、吉本せいがモデルの「わろてんか」は、吉田智子さんが脚本を担当し、ノベライズが出ています。「わろてんか」モデルの吉本せいを描いた小説がいくつか出ています。作家山崎豊子さんの小説「花のれん」や、ノンフィクションでは、矢野誠一さんの「女興行師吉本せい 浪花演藝史譚」、青山誠さんの「吉本せい お笑い帝国を築いた女」などがあります。
わろてんかのあらすじをネタバレ!
吉本興業の創業者、吉本せいをモデルに描かれたドラマ「わろてんか」は、NHKの朝ドラとして放送されました。ここからはドラマ「わろてんか」のあらすじをネタバレで紹介していきます。
ドラマ「わろてんか」のあらすじをネタバレで紹介します。明治35年、主人公藤岡てんが9歳から物語が始まります。てんの家は、京都の老舗薬問屋「藤岡屋」です。てんは笑いが大好きな女の子です。てんは、薬祭りの日、親戚ですが藤岡屋で働いている風太と初めて寄席を見に行きました。その帰り道、てんは北村藤吉と出会いました。男たちに追われている藤吉と、なぜか一緒に逃げるてん。藤吉はてんに笑いについて語りました。
てんと藤吉、運命の出逢いでした。藤吉とはその後、手紙のやり取りをするようになりました。てんは、大事な商談の席で失敗してしまい、父・儀兵衛に笑いを禁止されてしまいました。父の苦労を聞かされたてんは、落ち込みますが、兄の新一は、優しく励ますのでした。てんという名前の由来を母から聞かされたてん。お天道様から、てんと名付けられたのでした。17歳になったてん。藤吉との手紙のやり取りが父にバレてしまいました。
父はてんにお見合いを持ってきました。相手は製薬会社の「伊能製薬」社長の二男で、伊能栞といいます。しかし、てんは藤吉のことを忘れることができません。再会したてんと藤吉。藤吉はてんにプロポーズしました。芸の道を捨てる、実家の米屋を継ぐから一緒になって欲しい、一生笑わせたると言いました。てんは藤吉と結婚したいと父に訴えますが、勘当されてしまいました。てんは藤吉と家を出ていきました。
てんが嫁いだ藤吉の実家は、米問屋「北村屋」で、倹約家の姑・北村啄子が居ました。てんのことを認めない姑は、てんを女中として扱います。てんは必死に働きました。藤吉も真面目に働き始めますが、あるとき、店に借金があることを知ります。藤吉は、結婚を認めてもらうため店を立て直すと宣言します。ところが、藤吉は、ある儲け話に騙され、多額の借金を背負います。店の土地建物をすべて売却し、姑が借金を返済しました。
藤吉とてんは寄席経営を始める決意をしました。てんと藤吉は、寂れた寄席を見つけます。持ち主に掛け合い、なんとか売ってもいいという返事をもらえますが、資金が足りません。てんは実家に帰り、金を貸してくれるよう懇願しました。藤吉は実家へ行ったてんを叱りますが、二人の様子を見た父は、二人に金を貸してくれました。寄席は風鳥亭と名付けました。藤吉は、芸人の万丈目、キースなど、なんとか人数を集め、開業しました。
初めての寄席経営で、てんと藤吉は様々なアイデアを試します。客を効率よく回すため、わざと暑くし、暑さで逆に客足が遠のくとうちわを貸し出しました。また、客の靴を磨いたりと、あらゆる努力をしました。夏、冷やし飴を売ることにしたてんは、寄席の前で氷の上に寝かせ、冷やしながら売りました。冷やし飴は大好評でした。借金を返済したてんと藤吉に、息子・隼也が生まれ、そして「北村笑店」と名乗るようになりました。
子どもを抱えて忙しい毎日のてんは、藤吉が二件目の寄席を購入すると聞かされ、不安になります。そして藤吉は、売れっ子落語家を引き抜くため奔走します。当時大人気の月の井団吾を獲得したい藤吉は、1万円という破格の契約金を団吾に提示しますが、それを知った万丈目やキース、アサリなどの北村屋の専属芸人たちは、抗議します。強引なやり方とこれまで苦労を共にしてきた芸人たちをないがしろにする藤吉に、てんは怒ります。
芸人リリコに寄席について説教されたてんは、藤吉に協力するようになりました。ついに月の井団吾と契約することができました。てんと藤吉は、芸人に支払うギャラを、月給制にしました。そこへ風太がやってきて、芸人を派遣している寺ギンから文句が出てきていると告げにきました。月給制と聞いて、寺ギンの芸人たちが、北村笑店に行きたいと言い出したというのです。しかし、寺ギンに借金で抑えられている芸人がたくさんいました。
その借金を、てんが必死に貯めていたへそくりで支払いました。寺ギンにいた芸人たちが一気に北村笑店に入ったことで、寺ギンは大阪から無くなりました。ここから北村笑店は、さらに大きくなっていくのです。風太が番頭として北村笑店で働くことになりました。
北村笑店は、大阪の演芸界を引っ張る存在となりました。新しい笑いとして漫才を始めたキースとアサリ。二人の漫才は一世を風靡し、ラジオとの相乗効果で北村笑店の稼ぎ頭となりました。そんな矢先、藤吉が病に倒れます。しゃべくり漫才という新しいジャンルを作り出したキースとアサリの漫才を見る藤吉。映画女優として人気となっていたリリコも駆けつけました。新しい笑いを見届けた藤吉は、てんの腕の中で息を引き取りました。
藤吉の死後、てんは伊能や風太の助けを借り、北村笑店の経営に奮闘します。てんは、映画で活躍していたリリコを漫才師にすることにしました。北村笑店の芸人となったリリコの相方を捜します。リリコは、アコーディオン奏者の四郎とコンビを組むことになりました。二人の漫才は、リリコが一方的にしゃべり、四郎はリリコの剣幕に圧倒されるという、しゃべらない漫才として人気になりました。
キースとアサリ、リリコと四郎の二組は、北村笑店の二大看板スターとなりました。てんの息子、隼也も大人になり、伊能の会社で働いています。隼也は、アメリカで人気の「マーチン・ショウ」を、日本で上演したいと考えました。企画を進めていく中で、隼也は、加納つばきという通訳の女性と知り合いました。隼也は、契約金の手付を払うため、てんに金の用意を頼みますが、断られます。隼也は、藤吉の遺産で手付金を払いました。
しかし、その話は詐欺だったのです。すっかり気落ちした隼也を、てんは自分の側に置くことにしました。隼也はつばきのことを好きになっていましたが、つばきは北村笑店のメインバンクの頭取の娘で、婚約者がいるというのです。てんは隼也にあきらめるように言いました。つばきも隼也のことが好きなのでした。二人は、最後にてんと三人で食事をします。隼也はつばきに椿の形をしたネックレスを贈り、そして二人は別れました。
隼也はますます仕事に打ち込みます。リリコと四郎に引き抜きの話が舞い込みますが、北村笑店から出ていく気はないと言いました。隼也は北村笑店創立25周年の記念パーティーの準備をしています。そこへ、つばきの乳母が訪ねてきて、お嬢様のあなたへの想いを断ち切って欲しい、と言ってきました。隼也はつばきに自分も結婚すると嘘の手紙を書きました。つばきが隼也の家に来て、てんに結婚はしない、家には帰らないと言いました。
てんと風太が、つばきの父親を呼びました。勝手は許さないと言う父親は、取引は白紙にするとてんに告げ、帰っていきました。少し目を話したすきにつばきは、一人出ていきました。後を追おうとする隼也にてんは、「勘当や、あんたはもう北村の人間やない、もう二度と北村の敷居をまたいだらあかん」と言いました。隼也は出ていきました。
時代は戦争に突入していきました。北村笑店も厳しい検閲を受けます。風太たちは、「わろてんか隊」として戦地への慰問に行きました。隼也とつばきに子どもが産まれたという知らせが届きました。てんが、勲章をもらえることになり、てんは「女太閤」などと書かれました。北村笑店は、映画の制作を目指すようになっていました。伊能が作る映画がことごとく検閲に引っ掛かり、目をつけられるようになった伊能は社長を辞任しました。
てんと風太は、伊能と映画製作を始めますが、自分が制作に関わることで検閲が通らないことを恐れた伊能は、アメリカへ行くことにしました。隼也に召集令状が来ました。隼也は、つばきと息子の藤一郎のことを頼みに、てんの元へやって来ました。てんは、二人のことを引き受けました。終戦となり、みんなが疎開先から帰って来ました。大阪は焼け野原でした。焼けてしまった風鳥亭の前ですいとんを作り売り出したてん。
伊能がアメリカから戻り、風太と資材を集め始めました。再び寄席を作るためです。リリコと四郎、キースとアサリも戻ってきました。そして、隼也も無事に帰ってきました。焼け跡から再び風鳥亭が蘇ったのでした。ここまで、ドラマ「わろてんか」のあらすじをネタバレで紹介してきました。次は、「わろてんか」で北村てんを演じた葵わかなを紹介します。
わろてんかのてんを演じる葵わかなを紹介!
吉本興業の創業者・吉本せいをモデルに描かれたドラマ「わろてんか」の主人公、北村てんを演じた葵わかなの紹介をします。葵わかなは、1998年生まれ、東京原宿でスカウトされ、芸能界へ。2009年、ファミリーマートのCMでデビュー。ドラマ「サムライ・ハイスクール」で杏の子ども時代の役を演じ女優デビュー。2012年「ようこそ!東池袋ヒマワリ荘」で結成されたアイドル「乙女新党」のメンバーとなり、CDデビューしました。
出典: https://eiga.com
葵わかなの主な出演作を紹介します。
- 映画「陽だまりの彼女」(2013年)渡来真緒役
- 映画「瀬戸内海賊物語」(2014年)宮本愛子役
- 映画「暗殺教室」(2015年)斎藤綾香役
- ドラマ「表参道高校合唱部!」(2015年)蓮見杏子役
- 映画「ホラーの天使」(2016年)で主演
- 映画「サバイバルファミリー」(2017年)鈴木結衣役で主演
- 映画「青夏 きみに恋した30日」(2018年)理緒役で主演
わろてんかのてんのモデルとなった人物は?吉本せいの生涯や人柄を解説!
NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデル、吉本興業の創業者吉本せいは、どのような人物なのでしょうか?ここからは「わろてんか」のモデル吉本せいの生涯、人柄について紹介します。
吉本せいはどんな人物?
それでは、ドラマ「わろてんか」のモデル・吉本せいはどのような人物だったのか?を見ていきます。兵庫県明石市、米穀商を営む林家の三女・吉本せいは、明治22年(1889年)に生まれました。せいは、学校の成績は良かったのですが、兄弟が12人もいたので暮らしは楽ではありませんでした。そのためせいは、義務教育が終わると、大阪・船場の商家へ奉公に出ました。この奉公先は相当な倹約家でした。
無駄を省くためには、奉公人の食欲さえも無駄ということで、漬物樽をわざと湿気の多い所に置いて、臭くすることで、奉公人の食べる気を失くさせたりしていました。しかしせいは、少しでも食欲を起こそうと、アイデアを出します。それは、奉公人たちがお金を出し合って買った生姜を刻んでご飯にかけました。せいは、主人に叱られますが、このような発想力は、現状に留まらない、せいの商人としての片鱗が見えます。
せいは、19歳で吉本泰三と結婚しました。吉本家は老舗の商家で、「箸吉」という屋号でした。泰三は、箸吉を継いで、吉兵衛となりました。吉兵衛が継いだ頃は、日露戦争後の不景気で、箸吉の経営状態はかなり厳しいものでした。吉兵衛は、当主としての自覚に欠け、好きな芸能にのめり込んでいます。商売に励むなどということは、ありませんでした。
債権者が押し掛けたときでも、自分はどこかに隠れていて、せいを表に出し、対応がまずいとせいを叱り、日本刀を持ち出すこともあったという、どうしようもない主人でした。さらにせいを苦しめたのが、姑・ユキの存在でした。ユキは、先代の後妻で、吉兵衛の産みの母ではありませんでした。いわゆる嫁・姑問題ですが、このユキという姑のいびりは、並大抵ではなかったということでした。
たらいが血で真っ赤になるほど厚い着物を何枚も洗わされたり、食事から掃除、そして商売のことまで、朝から晩まで小言、嫌味の連続だったそうです。それでも夫・吉兵衛は知らん顔でした。芸能好きな吉兵衛は、ただ遊んでいるだけなら、まだよかったのですが、騙されたことにより、とうとう箸吉は破産してしまいました。
せいは、当時八人の子どもを抱えていました。後に四人を失くしていますが、家族のため必死に働きました。吉兵衛は、どうしても芸能興行をしたくて、「第二文芸館」を買い取ることを決意します。せいは資金集めに奔走します。実家にも借金をしてなんとか資金が集まり、明治45年(1912年)「第二文芸館」を手に入れました。
夫、泰三(吉兵衛)は、大正13年に死去します。せいは、吉本興業部のトップに立ち、実弟の林正之助を呼び、片腕としました。せいは、日本中にその名を広めた吉本興業の「女今太閤」と言われるようになりました。しかし昭和10年、せいが贈賄容疑で逮捕されるという事件が起きました。大阪府議会議長・辻阪への贈賄ということでしたが、せいは黙秘、辻阪は自殺ということで、結局立証できないまま終わりました。
そんな、闇の部分もあるせいですが、一方で、せいは芸人たちから慕われる人物でした。また、日本赤十字社や愛国婦人会に寄付をするなど、長年会社の利益を社会に還元しています。このような活動が認められ、昭和3年、紺綬褒章を受章しました。吉本せいは、気配り上手な人柄です。エンタツ・アチャコという人気漫才コンビが、ライバル社から多額の報酬で誘われても、せいに恩義を感じるエンタツ・アチャコは行きませんでした。
せいは、商売にも優れていて、世の中の動きに敏感で、チャンスを逃さずすぐに行動に移すという判断力、行動力がありました。吉本興業が、吉本興業株式会社となった昭和13年、せいは引退します。そしてせいは、驚きの行動に出ます。大阪のシンボル、通天閣を買ったのです。「女今太閤」のせいとしては、名実ともに大阪城主となったのでした。
太平洋戦争が始まり、日本はお笑いどころではなくなってしまいました。吉本興業にとって受難の時代でした。終戦を迎え、吉本興業もようやく息を吹き返すときがやって来ましたが、せいの私生活に悲劇が起きます。せいの二男、頴右(えいすけ)に恋人ができました。相手は大阪歌劇団(OSK)の笠置シズ子。シズ子は、「ブギの女王」と呼ばれる大人気スターでした。
しかもシズ子は妊娠していましたが、せいは決して認めませんでした。そんな中、頴右が肺結核になり、24歳で亡くなってしまいました。父、泰三の顔を知らずに育った頴右が将来、吉本興業を背負って立つことを夢見ていたせいにとって、これ以上ない不幸となりました。
頴右の死の3年後、せいは愛する息子、頴右と同じ肺結核で、亡くなります。夫、泰三と、一つの寄席から始めたお笑い稼業でした。せいは、数々の手腕を発揮し、男顔負けの度胸で、今や日本のお笑いのトップに昇り詰めた吉本興業。その礎を築いた「わろてんか」のモデル吉本せいは、華やかな中にも晩年は、哀しみに耐えた人生だったのです。
わろてんかのその他登場人物のモデルを紹介!
ドラマ「わろてんか」で主人公てんの夫、北村藤吉のモデルは、吉本せいの夫、吉本泰三(吉兵衛)です。ここからは、せいの夫泰三とは、どのような人物だったのかを見ていきます。また、ドラマ「わろてんか」の登場人物それぞれのモデルは?も見ていきます。
北村藤吉のモデルとなった人物は?
ドラマ「わろてんか」で、主人公てんの夫・北村藤吉のモデルは、吉本泰三(吉兵衛)です。泰三は、1886年に生まれました。大阪で荒物問屋「箸吉」を営む家の二男でした。「箸吉」は箸を扱い、高級料亭などに納める老舗でした。泰三は跡を継ぎますが、商売よりも演芸が大好きで、自身も剣舞演者となり全国巡業をした経験もありました。そのため芸を見る目は確かだったということです。1910年に林せいと結婚しました。
日露戦争後の不景気もあり、「箸吉」をつぶしてしまった泰三は、1912年大阪の繁華街、天満の「第二文芸館」という寄席を手に入れ、1913年「吉本興業部」を立ち上げました。泰三は、遊び人などと言われていましたが、妻の吉本せいは、泰三が実質経営を担っていたと言っています。泰三は、芸を見る目の確かさから、芸人たちから一目を置かれていました。しかし、大正13年(1924年)急性心筋梗塞で、37歳で死去しました。
武井風太のモデルとなった人物は?
ドラマ「わろてんか」の武井風太のモデルとなった人物は、林正之助で、吉本せいの実弟です。ドラマ「わろてんか」では濱田岳が演じています。吉本泰三の死後、吉本興業に入り、せいを助け、様々な手腕を発揮しました。
キースとアサリのモデルとなった人物は?
ドラマ「わろてんか」のキースとアサリのモデルとなった人物は、しゃべくり漫才で一世を風靡した漫才コンビのエンタツ・アチャコです。キースが横山エンタツで、大野拓郎が演じています。アサリが花菱アチャコで、前野朋哉が演じています。
リリコのモデルとなった人物は?
ドラマ「わろてんか」のリリコのモデルとなった人物は、リリコのモデルは、ミスワカナという人物となっていますが、はっきりしたことは分かりません。実はリリコはオリジナルでは?と言われています。ミスワカナは、林正之助がその芸に魅せられたという人物です。もう一人、竹本綾之助という人物もモデルではないか?と言われています。竹本綾之助は、女義太夫として活躍したということです。
わろてんかのモデルの吉本興行の歴史を紹介!
吉本興業の歴史について紹介します。「第二文芸館」を手に入れ、いよいよ「吉本興業」を立ち上げました。その一年後、「吉本興業部」を作りました。「第二文芸館」は、大阪の繁華街・天満にあり、そこにはすでに多くの寄席があったので、その中で「第二文芸館」は、格下とされていました。せいは、寄席を繁盛させるにはどうすればいいかを考えました。そして様々な工夫をしました。
客を身動きできないぐらい満員にし、窓を閉めると暑さで客はすぐに出ていきます。そしてまた空いた所に新しい客を詰めると、入場料が何回も取れると考えました。また、突然の雨で雨宿りに来た客の入場料を倍にしたりしました。今の時代で考えればとんでもないことでも、当時はそんなことも当たり前のように行われていたというのです。せいは、そんなやり方ばかりしていた訳ではありません。
せいは、自ら寄席で立ち働きました。また、芸人への細やかな気配りが評判となりました。芸人たちは、そんなせいに応えるように、もっと良い物を見せようと芸を磨いたのでした。せいは、入場料だけでなく他にも稼げる物を、と考えました。夏の暑い時期、寄席は蒸し暑く、客は冷たい物が欲しくなるだろうと思ったせいは、寄席で冷やし飴を売ることを思いつきました。
すぐに菓子屋で冷やし飴を仕入れたせいは、寄席に冷やし飴の売り場を作りました。そして、冷たいまま飲めるようにと、氷の上に冷やし飴の瓶を寝かせ、転がしました。一風変わった売り方が目を引き、寄席の客だけでなく通りすがりの人も、冷やし飴を買い、そのついでに寄席を見ていく客も増えたのでした。
さらに、客が食べる物にも工夫をしました。飲み物を買ってもらうには、塩辛い物を多く売るとか、客が食べたみかんの皮をとっておいて、乾燥させた皮を漢方薬局に売るなど、次々と実践していきました。一方、泰三(吉兵衛)は生来の遊び人ということで、芸人たちは、頑張っているせいのために一層、芸に精進したのでした。せいの奮闘によって、益々発展していく吉本興業でした。
大正4年(1915年)、寄席の名称を「花月」とし、第二文芸館は、「天満花月」となりました。「花月」の意味は「花と咲き誇るか、月と陰るか、全てを賭けて」です。様々な派閥に分かれていた関西お笑い界ですが、吉本興業部は「花月派」として、無派閥の落語家たちが集まりました。「浪花落語反対派」も花月派となりました。反対派といっても、浪花落語に反対というわけではなく、ものまね、娘義太夫や曲芸なども入っている派です。
さらに、「紅梅亭」という三友派の中心的存在を買収し、結果三友派を手中にし、大正10年(1922年)、吉本興業は上方演芸会のトップに立ちました。吉本興業部は、客に人気の芸人には高いギャラを惜しげもなく払います。その気前のよさから人気の高い芸人たちが、自らやって来るのでした。サラリーマンの給料が40円の時代に、売れっ子芸人は500円貰っていました。
大正12年(1923年)、関東大震災が起きました。せいは、義援金や寝具、食料などを送り、関東の芸人たちを支援しました。やがて、東京の芸人たちが大阪にやって来ました。寄席では復興を支援しようと、客の入りもよかったということでした。大正13年(1924年)、泰三(吉兵衛)が37歳でこの世を去りました。二男が産まれたばかり、せいが34歳のときでした。
事業を手伝ってもらうため、せいは実の弟の正之助と弘高を呼びました。正之助は芸に関しては素人で、落語家たちからは、笑いをわかっていないと言われていました。しかしせいは、そんな正之助の感性こそ、大事にしました。正之助が面白いと思うものなら、誰でも笑うだろうということです。もう一人の弟、弘高は正之助とはまた違う感性を持っていたので、せいは兄弟を同じ所へ配置しませんでした。
吉本興業は、月給制を取り入れました。芸人たちは、月給ということで安定した生活ができると喜びました。当時の芸人というのは、遊びも芸のうち、ということであちこちで派手に散財するものでした。そのため借金するものが多かったのです。そこに目を付けたせいは、ライバル会社に引き抜かれないように、芸人たちの借金をすべて一つにして、芸人たちを縛り、出ていけないようにしました。
時代は昭和へと入っていきました。せいは、演芸の世界も時代に合わせて変わっていかなければならないと考えました。そして、目をつけたのが、漫才でした。漫才とは、祝いの席で行う芸です。歴史は古く、二人組が鼓を持ち、小咄や歌舞伎をおもしろおかしく演じる芸です。落語家たちに良く思われていない正之助は、この漫才を引き立てて行きます。鼓をやめてハリセンを持ち、どんな人でも笑えるような、そんな演芸を目指しました。
しかし、一人でするのが本物の芸、という古い考えが残っている演芸界のため、二人でするのは芸ではない、と言われました。まして芸がわかっていない、とされている正之助が推しているということで、漫才は下に見られていました。それでも漫才は「弁天座」という数ある吉本興業の寄席の中でも、格上の劇場で演じられることになりました。そして、「全国漫才座長大会」が行われ、漫才はますます活気を帯びました。
漫才の人気は高まり、吉本興業は難波に、漫才専門の寄席を作り、入場料は十銭、としました。難波は一等地なのに、十銭という安さに、大盛況となりました。「十銭漫才」と言われ、大人気となった漫才ですが、せいは満足しません。もっと、何か新しいことができるのではないかと、せいは貪欲に進化を求めていきます。せいが次に目をつけたのは、横山エンタツと花菱アチャコです。
花菱アチャコは漫才をしていました。横山エンタツは、アメリカで巡業したことがあり、チャップリンの様な口ひげ姿で、今までと違う芸を追求しようと考えていて、吉本興業と目指す方向性が同じでした。エンタツとアチャコは、和服ではなくスーツを着て、お互いを「君」「僕」と呼ぶスタイルの漫才を始めました。どこにでもいるサラリーマンの様な格好をしている二人が、おもしろいやり取りをする、という新しい漫才を作りました。
この新しい漫才のスタイルは、最初は受け入れられませんでした。昔からの芸を見たがる客からは、罵声を浴びました。しかし、学生やサラリーマンは新しい漫才を気に入り、エンタツ・アチャコの「インテリ漫才」として人気となりました。すっかり売れっ子になったエンタツ・アチャコに、せいは満足でした。エンタツ・アチャコの活躍により吉本興業部では、漫才に一層力を注ぎます。落語を辞めて漫才をやる人まで出始めました。
新しい漫才の誕生ということで、名前も新しくすることになりました。読み方は同じで漢字を変えて「漫才」としました。こうして新しい演芸が吉本興業から始まったのです。そしてやって来たのは、ラジオの時代です。昭和5年(1930年)、桂春団治が吉本に黙ってラジオに出ました。ラジオで落語が聴けるなら、客は寄席に足を運んでくれません。いつまでも舞台で客を待っているだけでは先がないと、せいは考えました。
春団治が出演した大阪放送局(JOBK)と吉本興業は揉めましたが、放送局は吉本の売れっ子、エンタツ・アチャコによる「早慶戦」を放送したいと考え、また吉本興業としてもラジオと手を組むことは、大いに宣伝になると気づき、双方は和解しました。エンタツ・アチャコの「早慶戦」がラジオで放送されました。「花月」から放送された「早慶戦」を聴いた客が、寄席へ続々やって来ました。ラジオによって客が増えたのでした。
エンタツアチャコの「早慶戦」は、日本中で大評判となりました。漫才人気を確固たるものにしたい吉本興業は、漫才の台本を書く作家を増やしました。こうして漫才部門はますます躍進していきますが、落語家は、漫才を何より優先させていく、吉本興業に反発するようになります。桂春団治とは何かにつけて衝突しますが、春団治が亡くなったことで、落語とは完全に決別することになりました。
引き抜き合戦とは?
出典: http://www.ne.jp
漫才をラジオで聴かせるという試みが当り、吉本興業は日本中にその名が広まりました。そして昭和13年(1938年)吉本興業株式会社となりました。翌年、売れっ子漫才コンビ、ミスワカナと玉松一郎が、当時日本一の興行会社松竹に引き抜かれました。吉本は松竹に比べ資本力に劣り社会的にも格下でした。それでも吉本は、お返しとばかりに松竹の芸人を引き抜いたり、ミスワカナの出演を禁じることを求める法的手段に出ました。
そしてとうとう警察が調停に乗り出し、和解となりました。いよいよ戦争へと向かう時代がやって来ました。お笑いなどの娯楽は排除される時代です。吉本興業にとって苦難の時代でした。終戦となり、吉本興業は空襲によって寄席の多くを失くしました。吉本は、進駐軍をターゲットにキャバレーをして危機を乗り越えました。吉本興業が次に考えたことは、映画でした。
昭和22年、吉本興業は、これからの娯楽は映画が主流となると考え、思い切ったことをします。それは、花菱アチャコだけを残して芸人をすべて解雇しました。その中には戦前の吉本興業で、一時代を築いた漫才コンビ、エンタツ・アチャコの、横山エンタツ、二代目ミスワカナのミヤコ蝶々という吉本の隆盛を支えた芸人たちもいました。戦後の吉本興業を見届け、せいは昭和25年、死去しました。60歳でした。
わろてんかのモデルの吉本せいについてまとめ!
いかがでしたか?ドラマ「わろてんか」のモデルは、吉本興業の創業者、吉本せいでした。日本の笑いの殿堂である吉本興業を築いた吉本せいの生涯や、人柄を紹介し、せいの夫・吉本泰三(吉兵衛)についても見てきました。吉本興業の歴史についても紹介しました。また、ドラマ「わろてんか」で、主人公北村てんを演じた葵わかなについても見てきました。興味を持たれた方は、ぜひドラマ「わろてんか」をご覧ください。