2018年11月03日公開
2018年11月03日更新
篤姫(天璋院)には子供がいない?徳川家定との夫婦仲は?【西郷どん】
天璋院篤姫と徳川家定は仲が良い夫婦として知られるようになってきましたが、本当に子供はいなかったのでしょうか?2018年1月から始まったNHK大河ドラマの西郷どんでは北川景子さんが篤姫を、ピース又吉さんが徳川家定を演じて非常に話題となりました。また、古くは2008年1月に宮崎あおいさんが篤姫を好演し、全50話の平均視聴率が24%を超える大ヒットとなりました。そんな日本人に愛される篤姫と家定、そして2人の間に子供は本当にいなかったのかを探っていきたいと思います。
目次
篤姫(天璋院)の子供はいない?夫婦仲についても迫る!
現在、絶賛放送中の2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」で、北川景子さんが演じる篤姫(天璋院)が非常に美しく、また演技もとても印象に残っている方も多くいるでしょう。そこで、今回は篤姫(天璋院)に焦点を当てて説明していきます。その生い立ちから、点々と養女に出された少女時代、そして徳川家定との縁組。2人の間に子供はいなかったのかや夫婦仲にも迫っていきます。
篤姫(天璋院)とはどんな人物?子供時代も紹介!
篤姫(天璋院)の生い立ち
江戸時代後期の1836年2月5日(天保6年12月19日)。薩摩藩島津家の一門として生まれます。父は第9代薩摩藩主・島津斉宣の七男であり、今和泉島津家第10代目当主・島津忠剛。母はお幸。長女です。兄妹では長男の島津忠冬、次男で島津久敬、三男で幼くして夭折した猛熊、四男の島津忠敬、次女で幼くして夭折した於熊、三女の於龍、四女の於才がいます。
篤姫(天璋院)の名前
幼名は一(かつ)です。子供の頃は於一(おかつ)、または一子と呼ばれました。西郷どんでは於一と表記されていたので、そちらを覚えている人も多いようです。嘉永6年(1853年)に本家当主である従兄・島津斉彬の養女なり、名前を篤子(あつこ)、篤姫(あつひめ)としました。 安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となり、藤原敬子(ふじわらのすみこ)と名を改めます。
篤姫(天璋院)と徳川家定の縁組
篤姫が正室となる前は、徳川家定自身が病弱だったのと2人の正室が次々と早死したために子供は一人もいませんでした。そこで幕府は3人目の正室は、容姿よりも元気で健康な女性を求めます。また、第11代将軍・徳川家斉の正室が島津家出身の広大院であり、長寿で子供を多く授かっていたのであやかろうと。島津家側に幕府から縁組を持ちかけたとされています。安政3年11月に(1856年)第13代将軍・徳川家定の正室となります。
島津斉彬の野望と篤姫(天璋院)
西郷どんで渡辺謙さんが熱演されていましたが、実際の島津斉彬もドラマ同様に先見の明があり、策略家でもありました。幕府から縁組を打診されるのを見越したように、聡明で利発だった篤姫を養女としています。まるで将軍の正室として大奥から政治工作をするのを準備していたかのようです。更には「御台所としての身分が低い」と言われる事を懸念して、斉彬は天璋院を養女とした際に幕府へは実子として届出をしていたそうです。
徳川家定と島津斉彬の死
1858年8月14日(安政5年7月6日)に病弱だった家定が急死します。篤姫の結婚生活はわずか1年9ヶ月で終わってしまったのです。この時、篤姫はまだ20歳代前半でした。更に不幸は続きます。10日後には次期将軍決定に抗議するために軍を準備中だった、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬までも死去してしまいます。家定の死を受け篤姫は落飾します。戒名は天璋院殿従三位敬順貞静大姉。今後は通称の天璋院を名乗る事となりました。
次期将軍と篤姫(天璋院)
徳川家定が急死したことにより、後継として従弟の紀州藩主・徳川家茂が第14代将軍に就任します。この時まだ13歳ではありましたが、家臣から将来を期待されていました。幕府は公武合体政策を進め、1862年(文久2年)に徳川家茂の正室として朝廷より仁孝天皇の妹・和宮を迎えます。大奥にいた篤姫(天璋院)に薩摩藩は帰国を申し入れるますが、篤姫(天璋院)自身がこれを拒否しており、以後も江戸で暮らすことを選択します。
最後の将軍と篤姫(天璋院)
1866年7月20(慶応2年)に元々体が丈夫ではなかった第14代将軍・徳川家茂が第2次長州討伐の途中で病に倒れます。篤姫(天璋院)や和宮は医師を急ぎ江戸から派遣させますが、大阪城にて21歳で病死してしまいます。大奥として篤姫(天璋院)達は家茂の遺言通り、次期将軍に田安亀之助(のちの徳川家達)を推挙しますが4歳の幼児であり、雄藩大名らに反対されます。結果的に一橋家の徳川慶喜が第15代最後の将軍となります。
265年続いた江戸時代の終焉と篤姫(天璋院)
第15代将軍・徳川慶喜が1867年(慶応3年)に大政奉還を行います。しかし、そのあとに起こった戊辰戦争で新政府軍に敗れた旧幕府勢力として、徳川将軍家の存亡が危機に立たされます。その際、篤姫(天璋院)と和宮(静寛院宮)は徳川の救済と慶喜の助命を島津家や朝廷に嘆願。前線に出ている西郷隆盛にも救済を懇願する書状を届けています。1868年(慶応4年)江戸城無血開城を前に、長年暮らしていた大奥をあとにしました。
明治維新後の篤姫(天璋院)の生活
明治時代が始まり、江戸が東京と改められます。あくまで自分は元徳川の人間として、故郷だった鹿児島に戻らなかった篤姫(天璋院)は、東京の千駄ヶ谷にある徳川邸で生活をしていました。日々の生活費ですが、徳川と幕府を倒すことに賛同した島津家からの援助を一切受け取らなかったそうです。また、篤姫(天璋院)自身の手で将軍になれなかった徳川家達を引き取り、海外に留学させるなどして立派に育てたといいます。
篤姫(天璋院)の最後
時に勝海舟や和宮(静寛院宮)と食事や散歩をしていた篤姫(天璋院)ですが、1883年11月13日(明治16年)に脳溢血で倒れます。そして、そのまま意識は回復せず11月20日に48歳で死去しました。篤姫(天璋院)の葬儀には1万人以上の人が集まったとされています。薩摩に生まれ、徳川に嫁ぎ、大奥で生活をして、明治にやっと自由を得た篤姫(天璋院)は現在、上野の寛永寺にある夫・徳川家定の墓と並べて埋葬されています。
篤姫(天璋院)には子供がいない?
生涯子供はいなかった
篤姫(天璋院)が48歳で亡くなるまでの間に結婚したことは、徳川家定との1回だけだったと記述には残っております。その生涯を通じて夫であった家定を愛しており、他の人と一緒になることはありませんでした。そのため、家定との短い2年間の夫婦生活しか経験しておらず、子供を授かることも出来ませんでした。
篤姫(天璋院)の趣味
出典: https://pepy.jp
子供はいなかった篤姫(天璋院)ですが実は大変な愛犬家であり、徳川家定と結婚する前は狆(チン)を多数飼っていたそうです。ただ、家定が犬嫌いでだったらしく大奥入り後は猫を飼う事にしたという話があります。ちなみに猫の餌代は年間で25両も掛かったそうです。江戸後期における大工さんの年収が同じ25両だったと言われていますので、現代に換算すると数百万円も猫の餌代に使っていたと考えられています。
篤姫(天璋院)の逸話
2008年(平成20年)に東京学芸大学の教授がアメリカのスミソニアン博物館で、篤姫の駕籠を発見しました。その駕籠には篤姫だけが使用出来る「双葉葵唐草」の模様と篤姫の実家の家紋「近衛牡丹」及び「三つ葉葵」の紋がちりばめられていたそうです。明治維新後、篤姫(天璋院)は自分の貯金を使って元大奥の関係者のために就職・縁組に奔走しています。その結果、死後に確認された所持金は3円(現在の約6万円)だったそうです。
NHK大河ドラマで徳川家定を演じた女優
最近では、2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」で篤姫を演じた北川景子さんが印象に残っておりますが、やはり皆さんの中で一番印象に残っている篤姫と言えば2008年「篤姫」の宮崎あおいさんでしょう。他には1990年「翔ぶが如く」で富司純子さんが篤姫を演じています。
NHK以外のドラマで篤姫(天璋院)を演じた女優
フジテレビ系列の連続テレビドラマ時代劇として、1983年「大奥」で若い時を小林麻美さんが、後年の篤姫を三林京子さんが演じています。テレビ朝日系列の新春ドラマスペシャル3時間放送として、1985年「天璋院篤姫」では佐久間良子さんが篤姫を演じています。フジテレビ系列による火曜時代劇のスーパー時代劇シリーズとして、2003年「大奥」では菅野美穂さんが篤姫を演じています。
映画や舞台で篤姫(天璋院)を演じた女優
おそらく一番初めに篤姫を演じた女優は、1957年の映画「朱雀門」で滝花久子さんでしょう。他には映画で、2012年「篤姫ナンバー1」で元モーニング娘。の石川梨華さんが篤姫を演じられています。舞台では宮尾登美子さん原作の「天璋院篤姫」で2010年は内山理名さんが、2011年では国仲涼子さんがそれぞれ篤姫を演じています。
篤姫(天璋院)と徳川家定との夫婦仲は?
徳川家定とは?
篤姫(天璋院)の夫である徳川家定とはどのような人だったのでしょうか。現在、放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」ではピース又吉さんが好演していましたが、実際にはどのような人物であり将軍として何をした人なのか、これから簡単に説明していきます。
徳川家定の生い立ち
1824年(文政7年)4月8日に第12代将軍・徳川家慶の四男として生まれます。母は側室の美津(本寿院)。幼名は政之助です。家慶は正室と側室で合計14男13女と子供を多く儲けましたが、成人まで無事に育ったのは家定だけでした。そして、その家定も幼少期から非常に病弱であり、人前に出ることを極度に嫌がったといわれています。
徳川家定は病気を患っていた
人前に出るのを極度に嫌がった家定ですが、痘瘡(天然痘)の影響で顔に痣や痕があったとか、脳性まひで身体に不自由があったといわれています。他に唐突に激怒する(キレる)ことがあったり、奇行が非常に多く、まともに話せなかったともいわれています。西郷どんでピース又吉さんの演技した家定は、実物よりまともで非常に優しかったと思った方が良いかもしれません。
第13代将軍の徳川家定
1841年(天保12年)祖父である第11代将軍・徳川家斉の死後、第12代将軍・徳川家慶の後継者となります。ただ、徳川家慶は家定の器量に疑問を持ち、一橋家の慶喜を将軍の後継者にしようと考えました。しかし、老中ら家臣が猛反対したため、最終的にそのまま家定が後継者に指名されると事となりました。1835年7月27日(嘉永6年6月22日)に家慶が病死した事により、第13代将軍・徳川家定となります。
徳川家定と正室
徳川家定は正室として任子(天親院有君)を迎えるも、天然痘により26歳で死去してしまいます。翌年に秀子(澄心院寿明君)を迎えますが、火傷の後遺症が原因といわれる発病でこちらも26歳で死去します。幕府として3人目の正室には是が非でも後継者を産んでもらわねばならず、そこで目を付けたのが元気で健康な篤姫(天璋院)だったといわれています。
徳川家定と将軍継嗣問題
篤姫(天璋院)との間にも子供は生まれませんでした。そのため、将軍として在職時にも水面下では後継者争いが起こっていましたが、1587年(安政4年)家定が病状を悪化させた際に激化します。一橋家の慶喜を支持する越前藩主の松平慶永や薩摩藩主の島津斉彬などと、家定のいとこにあたる紀州家の慶福を支持する彦根藩主の井伊直弼などが対立します。のちに「将軍継嗣問題」と呼ばれる徳川家による跡継ぎ争いが始まってしまいます。
徳川家定の最後
1858年8月14日(安政5年7月6日)に第13代将軍・徳川家定は、将軍としての功績をほとんど残せぬまま病死します。35歳でした。実子がいなかったため、紀州家から養子となった慶福改め家茂が将軍を正式に継ぎました。西郷どんではピース又吉さんが死ぬ間際に北川景子さんを優しく気遣うシーンがありましたが、残念ながら史実には残っておりません。
2人の仲は良くなかった説
篤姫は病弱な夫である家定を支えていたので、お互いに信頼関係はあるはずです。しかし、島津斉彬から密命を帯びて大奥に潜入し、次期将軍についての情報を聞き出す事と慶喜を将軍に据える事を命令されていた可能性があります。これを裏付けるように斉彬は毎月、篤姫へ大奥での工作資金として多額のお金を送っていたとの記録もあります。結果、篤姫は薩摩藩のスパイであり、2人の間には愛情はなかったという説があります。
2人の仲は良かった説
家定の趣味は料理で本格的なお菓子までも作っており、篤姫の実家薩摩藩から送られてきた黒砂糖を使って、カステラを作って彼女に振舞ったという仲が良さそうな話があります。また、ペリーが1854年に来航した時に献上したミシンを、家定が篤姫にプレゼントしていたという逸話もあります。これらの話から、大河ドラマの篤姫や西郷どんのように2人は短い時間でしたが非常に仲が良く、愛し合っていたという説があります。
2人の子供は本当にいなかったのか
NHK大河ドラマの篤姫や西郷どんを見ればわかりますが、篤姫(天璋院)と徳川家定の間に最終的には子供はできませんでした。非常に残念でなりません。また、現在では篤姫(天璋院)と徳川家定の2人の仲は良くなかった説と2人の仲は良かった説の両極端な考えがあるとされています。
篤姫(天璋院)と西郷どんの関係は?
篤姫と西郷どんは生まれが同じ鹿児島
現在、放送中の大河ドラマ「西郷どん」では、篤姫(天璋院)が西郷隆盛に密かに好意を寄せていたという描写がありましたが、実際にはどうだったのでしょう。2人は共に現在の鹿児島県にある薩摩藩で出生しています。そして、篤姫は島津斉彬の養女となります。西郷隆盛は島津斉彬によって引き立てられた忠実な家臣でした。
篤姫(天璋院)と西郷隆盛は面識があったのか
現在も残っている資料では、篤姫が家定に嫁入りする際の道具を西郷隆盛が調達したことがわかっております。また、篤姫の奥女中であった幾島が西郷隆盛を通じて、頻繁に薩摩の江戸藩邸と情報を交換したことも書かれておりました。しかし、篤姫と西郷隆盛では身分が大きく違いますので、両者が直接会ったり言葉を交わすことはなかったでしょう。
篤姫(天璋院)は薩摩藩や西郷隆盛の事が嫌い
1858年(安政5年)家定が病死した時と、1868年(慶応4年)江戸城が無血開城された時の2度に渡って、薩摩藩から戻ってくるように申し出がありましたが、篤姫は断って徳川家として江戸に残ります。また、江戸時代が終わり明治時代が始まると薩摩藩から資金援助の申し出もありましたが、こちらも断ってあくまで元徳川家として行動をしております。この事から、幕府や徳川家を倒した薩摩藩と西郷を恨んでいたのかもしれません。
篤姫(天璋院)の子供や夫婦仲についてまとめ
篤姫(天璋院)と徳川家定の夫婦生活は約2年と短く、病弱で晩年は動く事すら出来なかった家定が大奥にいる篤姫の元を訪れる事はないに等しいでしょう。そのため、2人の間に子供がいた可能性は限りなくゼロに近いと言われています。しかし、篤姫は幕府崩壊後も江戸に残り、薩摩からの援助を受け取らずに元徳川家として行動しています。NHK大河ドラマの篤姫や西郷どんのように、徳川家定の事を愛し、徳川を誇りにしていたでしょう。