マッサンのエリーは最期や死因は?演じたシャーロットのその後・現在も調査

『マッサン』はNHK大阪放送局制作で2014年9月29日から2015年3月28日まで放送された連続テレビ小説。ヒロインには、シャーロット・ケイト・フォックスさんが外国人として初めて起用された事でも話題になりました。今回はマッサンのヒロイン、エリーの死因と最期について調査します。またエリーの死因や最期の他にもヒロイン役のシャーロット・ケイト・フォックスさんの現在も調査します。

マッサンのエリーは最期や死因は?演じたシャーロットのその後・現在も調査のイメージ

目次

  1. マッサンのエリーの最期が気になる!
  2. マッサンとは?
  3. マッサンのエリーとは?役柄やモデルを紹介!
  4. マッサンのエリーの最期や死因を調査!
  5. マッサンのエリーを演じたシャーロットを紹介!その後や現在とは?
  6. マッサンのエリーの最期や死因まとめ!

マッサンのエリーの最期が気になる!

2014年9月から放映されていた連続テレビ小説「マッサン」。今も根強い人気のあるドラマです。今回は「マッサン」のヒロイン、エリーの死因や最期について調べます。ネタバレもかなり含みますので苦手な方はご注意ください。

さてドラマ初回からヒロインのエリーはすでに最期を迎えていますが、その死因は明らかにされていません。今回はヒロイン・エリーの死因と最期をネットでの考察を元に調査し、また「マッサン」ヒロインエリーを演じたシャーロット・ケイト・フォックスさんの現在の状況も調べます。

マッサンとは?

大正時代、ウイスキーづくり(いわゆるジャパニーズ・ウイスキー)に情熱を燃やす造り酒屋の跡取り息子のマッサン(亀山政春)が、単身スコットランドへ渡ります。そこで出会ったスコットランド人の女性、エリーとマッサンが半ば駆け落ちの状態で国際結婚するところから物語が始まります。エリーは日本とスコットランドの違いに戸惑いつつも、異なる文化を学びながら成長していきます。

本作のモデルとなる人物は、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝とその妻リタ(ジェシー・ロベルタ・カウン)で、タイトルの「マッサン」はリタが政孝のことをこう呼んだことにちなんでいます。時代背景や当時の世情などよく考察されたドラマです。

連続テレビ小説には珍しく、主人公の子供時代から始まるのではなく、マッサンもエリーも大人になってからのドラマのスタートになります。造り酒屋の跡取り息子のマッサンはウィスキー造りに情熱を注いでいます。その情熱や生家である造り酒屋の命運を背負ってスコットランドにウィスキー造りのために留学します。そこで出会ったのが運命の人、エリー。二人は結婚を決意し、マッサンの帰国に合わせてエリーも来日します。

しかし時代は大正。一般人と諸外国との交流も乏しく、「外国人の嫁は認めない」と言われてしまいます。半ば駆け落ち同然で結婚したマッサンとエリー。エリーの人柄もあり、まわりの人の協力で日々近所の人たちと打ち解けていきます。

様々な困難を乗り越え、なんとか日本に馴染もうとします。典型的な嫁いびりや異国文化を理解しようと奮闘するエリー。マッサンも自分の理想とするウイスキー造りに造りに奔走する。様々な苦難を乗り越え国内初の国産ウイスキーを作り上げました。

マッサンのエリーとは?役柄やモデルを紹介!

それでは、マッサンのエリ―は一体どのような役柄なのでしょう。ここからはエリーの役柄やモデルとなった人物について詳しく調べていきます。エリーとは、マッサンのヒロイン。結婚後の戸籍上の正式名は「亀山エリザベス」。一人称は「私(わたし)」。歌が好きで、スコットランド及び日本の民謡などを頻繁に口ずさんでいます。前向きな性格で何事にも真剣に取り組み、内助の功となり政春を支え、家庭を守りつづけます。

チキンブロス、シェパーズパイなど欧州の家庭料理をはじめ、来日してから懸命に覚えた日本の料理を作って食卓を彩り、風邪をひいた時には身体を温めるウイスキーをベースとした飲み物ホットトディを作り、家族の普段着やベッドカバーやクッションなども自ら縫いあげるなど、家事全般は得意です。

両家の母や一部の親族から批判され、外国人ゆえに周囲から偏見を持たれたり注目されながらも、愛する政春のために日本人として生きていこうと奮闘します。当初は「マサハル」と呼んでいましたが、来日後、夫を呼び捨てにしてはならない日本のしきたりを早苗から教わり、「マサハルさん」と呼ぶことにしました。しかし「マサハルさん」の発音が難しいとの理由から、政春を「マッサン」と呼び始めます。

エリーのモデルはどんな人?その生涯を調査

エリーのモデルとなった人物とは、竹鶴リタ。母国スコットランドでの名前はジェシー・ロバータ・カウンという女性です。マッサンのモデルとなった、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝さんの妻です。一体どのような女性だったのか、調べていきます。

グラスゴー(スコットランド南西部)郊外のイースト・ダンバートンシャー カーキンティロック(英語版)地域で、医師の長女として誕生しました。兄弟は4人姉弟。リタは幼少の頃から偏頭痛に悩むことが多く、15歳になると学校に通えず、個人教授を受けていました。しかし18歳でグラスゴー学院に入る頃は健康を取り戻し、音楽・英仏文学を学びます。卒業後は自動車の運転免許を取得し、父の往診の手伝いもしていたそうです。

有機化学と応用化学を学ぶためスコットランドのグラスゴー大学に留学(1918年(大正7年)入学)していた竹鶴政孝さんとは、リタが第一次世界大戦で婚約者を亡くして間もない1919年(大正8年)、当時同大学医学部に在籍していたリタの妹エラから弟のラムゼイへの柔道(柔術)指南を依頼された政孝がカウン家を訪れたことがきっかけで出逢います。

2人は音楽が共通の趣味でリタがピアノ、政孝が持参していった鼓を一緒に奏でるなど親睦を深めます。政孝が「スコットランドに残っても構わない」とリタに打ち明けた気持ちに対しリタは「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と伝えたと言います。国際結婚に抵抗感が強い時代であり、両家のどちらからも反対されたことから、1920年(大正9年)1月に登記所での略式結婚を選択し、同年11月に来日しました。

当初は、政孝が摂津酒造(宝ホールディングス)に就職したため、現在の大阪府大阪市に居住していました。帝塚山学院の英語教師・英会話・ピアノ教師などを歴任しました。また1924年・1931年には政孝の視察に同行する形でスコットランドに帰郷しています。その後鎌倉市に移住しましたが、1934年には政孝が寿屋(サントリー)を退社し、北海道で大日本果汁(ニッカウヰスキー)を設立し、余市蒸溜所を開設して所内に居住をします。

リタも翌1935年9月、余市町へ転居しました。1924年に妊娠をしていましたが、流産してしまいます。それ以降、夫妻には子供が出来なかったため、1930年には山口広治・シゲ夫妻の子供である房子(後に改名してリマとなる)を、1943年には政孝の甥である宮野威を養子として迎えました。しかし、養女のリマと夫妻との関係は次第に悪くなっていき、リタの晩年になるまで関係は修復されませんでした。

1955年(昭和30年)に肝臓や肺を病んだことから、冬季は政孝が東京で仕事をする際滞在する神奈川県逗子市で、そして夏季は余市で、生活するようになります。1959年(昭和34年)に妹のルーシーが来日します。これがカウン家関係者との最後の交流となり、1960年(昭和35年)秋に自身の希望で余市へ帰郷します。1961年(昭和36年)1月17日、肝硬変のため64歳で永眠します。

やはりモデルとなった竹鶴リタさんも身体が弱かったとのこと。ドラマのエリーとは違い、死因がはっきりと肝硬変と言われています。着物を着こなしたり、子育てでは「お父さん、お母さん」と呼ぶようにしつけたり、関係者のインタビュー記事では「とてもきれいな日本語を話していた」との記事もあり、心から日本を愛していた様子も覗えます。

マッサンのエリーの最期や死因を調査!

鴨居商店の山崎工場の落成時に、政春との子を宿したことが判明しますが、自宅の階段で転落して流産してしまいます。その際に、幼い頃から病弱で体力に乏しいこと、現在も極度の貧血であることから出産は母体の生命に危険が及ぶ危険性が強く、ほぼ不可能であることを医師に診断されます。そこで山崎工場のお披露目後、キャサリンの仲介で、身寄りの無い乳児に「エマ」と名付け、養女に迎え入れることになります。

第二次世界大戦が開戦し、日に日に戦局が激しくなっていくと街頭で子供たちから石を投げつけられたり、あらぬ悪口を囁かれたりと外国人を敵視する世情を痛感する日々を送ります。身の危険を感じるほどになり、自宅の中で過ごすことが多くなって行く日々。

エリーは享年64歳で亡くなる

ストレスから神経質になってしまうこともあり、特に思春期を迎え恋をするようになったエマに対して過干渉になりますが、エマの気持ちと向かい合うために自分の辛い初恋の思い出を打ち明けます。その際に、自分もかつて実父から貰った「人生は冒険旅行」の言葉を改めて噛みしめ、エマを見守ることを決めます。

日本が終戦を迎えたと同時に特別高等警察の監視下から解かれましたが、心労がたたり、ついには倒れてしまいます。終戦から3年、ようやく平穏な日々を過ごすようになります。俊夫夫妻が余市を去ってから12年後、養子の悟夫妻に生まれた孫たちに囲まれ、幸せな時間が訪れます。エリーは病魔に冒されておりすでに余命わずかでした。エリーは自身の余命を悟り、政春へ最後のラブレターをしたためていました。

政春・エマたちと余市工場内を散歩中に倒れ、危篤状態になってしまうエリーですが、最期は意識を取り戻し、政春と2人きりで穏やかな時間を過ごします。やがて身体を横たえたエリーの手を政春はしっかりと握り、スコットランドから日本へ二人で向かったその日にエリーに告げた「この手、離すなよ」の言葉を贈ります。エリーもあの日と同じように「はい」と返事をし、その言葉を最期に静かに目を閉じて生涯を終えました。

生前に書き残した政春へ宛てた最後のラブレターは、彼女の葬儀後に読まれ、憔悴しきっていた政春の心に再び仕事復帰する気力を与えました。死因についてはっきりとした説明はありませんでした。竹鶴政孝の妻・リタがモデル。病弱という設定や第11週で描かれた1924年(大正13年)の流産はリタの史実を踏まえたものです。

【マッサン】エリーはいつ亡くなる?マッサンは妻の死後○○年後に… | ロケTV

マッサンのエリーを演じたシャーロットを紹介!その後や現在とは?

さてここからは「マッサン」でエリー役を演じた女優、シャーロット・ケイト・フォックスさんを調べていきたいと思います。エリ―を演じるきっかけや、今現在のシャーロットさんの活動などをご紹介します。

名前はシャーロット・ケイト・フォックス。生年月日は1985年8月14日。出身地はアメリカ合衆国・ニューメキシコ州サンタフェ。身長は167 cm。血液型はO型。2014年にNHK連続テレビ小説マッサンで白人女性のヒロインを募集している事を知り、オーディションに参加し見事ヒロインに抜擢されてました。当初日本語が全く話せないままオーディションに臨んだのですが、その後5月のクランクインまでに日本語を猛勉強し、撮影に臨んだといいます。

マッサンでの演技が評価され2015年9月には「名探偵キャサリン」で、民放ドラマ初出演を果たし、2016年4月には「OUR HOUSE」で「芦田愛菜」さんとW主演も務め、連続ドラマ初主演を果たしています。実は歌手としても活動しており、2015年4月に「ゴンドラの唄」でCDデビューを果たし、8月にはファーストアルバムも発売、全国7都市でツアーを行っています。

シャーロット・ケイト・フォックスさんの現在は?

シャーロットさんは現在も女優と歌手としての活動を進めているそうです。2017年には「三匹のおっさん3~正義の味方、みたび!!~歳一話」「脳にスマホが埋められた!第7話」「ドクタ-X~下界・大門未知子~第5シリーズ第7話」と単発でのドラマ出演があり、女優として引き続き活動をしています。

2019年には「いだてん~東京オリンピック噺~」で、NHK大河ドラマ初出演が決まっていて、オリンピックにかけた日本人の生きざまを演じると言います。エリー役からブロードウェイのシカゴの主役など、清楚からセクシーまで演じきるシャーロットさんですが、「マッサン」からの日本での仕事も数多くこなしています。これからのシャーロットさんの活躍にも期待の声が多く見られました。

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マッサンのエリーの最期や死因まとめ!

エリーの死因についてはドラマ内ではっきりとは描写はされていませんでした。様々な推測がネット掲示板などでは見られましたが、どれも「おそらく」の範囲であり、制作者側が意図的に死因の描写をしなかったものと思われます。しかし最期のそのときまでマッサンとエリーの愛に満ちあふれた会話であったり、様々な思い出を語り合うシーンは素晴らしいとの声も多かったです。

夫婦愛や家族愛を複雑な時代背景を元に、大いに考えさせられるドラマとなっておりますので、興味を持たれた方は是非、おいしいウィスキーを片手にゆっくりと鑑賞なさってはいかがでしょうか。

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