トンイは実話でモデルになったのは淑嬪崔氏?その生涯や悪女という噂を考察

韓国ドラマ「トンイ」でヒロインになって注目を集めた淑嬪崔氏。トンイのモデルとなった淑嬪崔氏の人生にも注目が集まりましたが、トンイは実話なのでしょうか。さらに、ドラマ上では正義感の強い女性というイメージの淑嬪崔氏ですが、実際は悪女だったという説もあります。はたして、トンイはどこまでが実話なのでしょうか?さらにモデルとなった歴史上の淑嬪崔氏は一体どのような人物だったのでしょうか?今回、この二点にフォーカスを当てて考察していきます。

トンイは実話でモデルになったのは淑嬪崔氏?その生涯や悪女という噂を考察のイメージ

目次

  1. トンイは実話?モデルと噂の淑嬪崔氏に迫る!
  2. トンイとは?
  3. トンイは実話?
  4. トンイの淑嬪崔氏の生涯や悪女の噂に迫る!
  5. トンイの実話説や淑嬪崔氏ついてまとめ!

トンイは実話?モデルと噂の淑嬪崔氏に迫る!

淑嬪崔氏(スクピンチェ氏)は李氏朝鮮19代王・粛宗の側室、そして21代王・英祖の母である人物です。韓国ドラマ「トンイ」では、快活で正義感の強い女性なイメージの淑嬪崔氏ですが、別作品では陰謀を企む悪女として描かれています。全く正反対なイメージで描かれた淑嬪崔氏がどのような人物だったのか、そしてトンイは実話なのか…これらの疑問に迫っていきます。

韓流プレミア トンイ:テレビ東京

トンイとは?

テレビドラマ「トンイ」は、2010年3月から韓国で放映された17世紀末から18世紀初頭にかけての李氏朝鮮を舞台に王宮内の権力闘争や人間模様を描いた作品です。韓国ドラマの認知度上昇のきっかけとなった「宮廷女官チャングムの誓い」、そして「イ・サン」を手がけたイ・ビョンフンが監督を務めた、日本でもファンの多い本作の作品情報やあらすじをまとめました。

トンイの作品情報

トンイ(韓国語:동이)は全60話構成のドラマです。韓国では2010年に放送され平均視聴率23.0%の大人気ドラマとなりました。日本での地上波放送では2013年1月~2014年5月までNHK総合で毎週日曜23時00分から日本語吹き替え版が放送され、民放では2015年1月からテレビ東京で、2月からCBCテレビで、12月からBSジャパンでそれぞれ放送が開始しました。

トンイのあらすじ

貧しいながらも幸福な生活を送っていた少女トンイ・淑嬪崔氏(ハン・ヒョジュ)はある日、父と兄が陰謀に巻き込まれて突然家族を失ってしまいます。罪人の子として追われる身となったトンイは、父と兄の無念を晴らそうと陰謀の真相を探るため下働きとして宮廷に潜入。その明るい人柄と頭の良さ、真っ直ぐな性格から周囲の人々に愛されます。

宮廷では運命の女性でライバル、チャン・オクチョン・禧嬪張氏(イ・ソヨン)と再会。その後は激しい女の戦いを演じる事に。美しい娘に成長したトンイは、監察府(カムチャルブ、宮廷の女性達を取り締まる機関)の女官に抜擢され活躍するなか、父を冤罪におとしいれた一派の陰謀を暴いていきます。

時の王スクチョン・粛宗(チ・ジニ)は街で出会ったトンイを愛するようになり、のちに側室として迎え入れ王子クム・昑(イ・ヒョンソク)をもうけます。その後も、数々の苦難がトンイを襲いますが、多くの人々に支えられ危機を乗り越えて行きます。

王子クムことヨニングンは賢い王子に成長し、名君として知られる英祖(ヨンジョ)となっていきます。トンイも、卑しい身分の出でしたが、王の生母として側室では最高位の淑嬪(スクピン)に叙せられる事になるのです。晩年、トンイは宮廷を出て弱者である貧しく卑しい人々を慈しみ、彼らの味方として暮らしていきます。

トンイは実話?

淑嬪崔氏は出生や後宮での地位、そして暮らしの様子が分かるような記録や史実がほとんど残っていない人物です。では、淑嬪崔氏をモデルとした女性を主人公としたドラマ「トンイ」は、どこまでが実話なのでしょうか?

トンイの内容は実話ではないフィクション作品

ドラマ「トンイ」は、モデルとなった淑嬪崔氏の出自と家族構成、また宮廷入りする前の資料は残っておらず、「トンイ」と言う名前も含め、大半が実話ではなくフィクション作品です。トンイのモデルは21代国王英祖の母親である淑嬪崔氏ですが、トンイという名前はドラマのためにつけられた名前です。

チャン・オクチョンが王妃になり、前王妃が追放されるなど、ある程度史実に基づく場面もあります。しかし、淑嬪崔氏の記録はとても少なくどのような人生を送ったのかは謎だらけです。よってトンイは、大半は事実ではないフィクション作品である事がわかります。

トンイの淑嬪崔氏の生涯や悪女の噂に迫る!

第21代英祖(イ・サンの祖父)の生母というのは系譜にも書かれていることですが、それがなければほとんど世に知られない存在だったかもしれなかった淑嬪崔氏。トンイのモデルとなった淑嬪崔氏は一体どのような人物だったのでしょうか?彼女の生涯、そして悪女と言われている噂に迫って行きます。

淑嬪崔氏の生涯

淑嬪崔氏に関する出生や後宮での暮らしぶりの痕跡を垣間見る史実はほとんどみあたらないようです。その理由の一つとして上げられるのは、当時の完全な階級社会では身分の低い者が王の生母であるという事実がタブーだったからなのかもしれません。

「淑嬪」という名は側室の最上位正一品の位「嬪(スク)」に呼称の「淑(ビン)」をつけたもので、一番最後の文字「崔(チェ)」が氏名です。この時代では「女性の名前を口にするのは不作法」という風習がある為、名前は使われませんでした。しかし、「しとやか」を意味する「淑」という字が表すように控えめで思慮深い人だったようです。

宮中にいなくては王と出会う機会はないわけですが、淑嬪崔氏は粛宗の第二王妃仁顕王后の宮女(クンニョ)かその宮女のムスリ(雑用係)だったのではないかと言われています。また最近の有力説では内人(ナイン)と言われる宮女・女官で針房(チムバン)から仁顕王后つきの宮女となったとされています。家族に関する史実から7歳~10歳に宮中に入ったと言われています。

淑嬪崔氏は悪女?

ドラマ「トンイ」の主人公のモデルとなっていた淑嬪崔氏。彼女とお互いにライバル関係にあったのが禧嬪張氏(チャン・オクチョン)です。朝鮮王朝の正式な歴史書である「朝鮮王朝実録」によると、禧嬪張氏より淑嬪崔氏のほうが悪女であったと思われる根拠が…?「朝鮮王朝実録」を元に、淑嬪崔氏が悪女である根拠を3つに整理します。

まず一つ目の根拠。側室から王妃になった禧嬪張氏ですが、1694年に王妃から側室に降格。その理由が、「禧嬪張の兄である張希載(チャン・ヒジェ)がトンイを毒殺しようとしていた」という告発があったからです。この告発は宮中を揺るがす大事件に発展し、結果的に張希載は流罪に。

全ては「トンイが毒殺されるかもしれない」という告発が根拠になったのですが、実はその告発に明確な証拠があったわけではなく、偽りの告発だったとも想定できます。本当に、張希載がトンイを毒殺しようとしたのでしょうか…?トンイを毒殺したとしても張禧嬪側は何も有利になる状況ではなかった為、その様な企みをする可能性は低いと考えられます。

2つ目の根拠は、張禧嬪が呪詛をする必要があったのかという事。粛宗の正室だった仁顕(イニョン)王后は、長い病気の末に1701年に亡くなっています。それから40日後に、トンイが粛宗に「張禧嬪が仁顕王后を呪い殺そうとしていた」という告発を行なっています。ただ不思議なのは、仁顕王后が亡くなってから40日も経ってから告発したことです。

トンイがその事実を知っていたのであれば、なぜもっと早く言わなかったのでしょうか?実際に、仁顕王后の屋敷の周りから、呪詛に使ったと思われる呪いの品物が発見されています。しかし、張禧嬪が埋めたという証拠無く、トンイが自分で埋めて告発したとも言える。実際は、その準備のために40日もかかったのではないかと言われています。

そして3つ目の根拠。張禧嬪の息子は粛宗が亡くなった後、20代王・景宗(キョンジョン)として即位。しかし、わずか4年で世を去ってしまいました。それによって、景宗の弟だった英祖(ヨンジョ)が21代王として即位します。英祖はまぎれもなくトンイの息子です。しかし英祖は、父親である粛宗とまったく似ていなかったと言われているのです。

英祖が即位した後、「英祖は粛宗の子供ではない」という理由で反乱が勃発します。当時その噂は国中に広まっていて、もし事実であれば、トンイは粛宗以外の男性と男女関係を結んでいたことになります。その相手としては、トンイの黒幕だった金春沢(キム・チュンテク)とも言われています。

トンイの実話説や淑嬪崔氏ついてまとめ!

「朝鮮王朝実録」において、張禧嬪が悪行をした形跡はなかったものの、女官から王妃になったことで怨まれて様々な悪口を言われ、悪女と言われていたのは事実です。しかし「朝鮮王朝実録」による当時の状況を推察すると、張禧嬪よりトンイのモデルとなった淑嬪崔氏の方が悪女だったと言える事が出来ます。

淑嬪崔氏に関する史実はほとんど無く、フィクションで描かれた韓国ドラマ「トンイ」。淑嬪崔氏のモデルとなったトンイは心の清らかな女性として描かれていましたが果たして、実際はどのような女性だったのでしょうか。

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