【キングダム】趙の悼襄王を史実から考察!少年好き?最後や李牧との関係は?

「キングダム」の趙王・悼襄王は、作中では臣下からも「愚かな王」と評され、美少年たちとの豪華な宮廷生活に溺れる無能な王として描かれていますが、史実ではこのような記録は残されておらず、実像は謎に包まれています。本文では、「キングダム」の趙王・悼襄王の知られざる史実と、美少年好きという設定と真相、衝撃的な悼襄王の最後、李牧との関係などを考察を交えながら紹介します。

【キングダム】趙の悼襄王を史実から考察!少年好き?最後や李牧との関係は?のイメージ

目次

  1. 趙の悼襄王とは?
  2. 悼襄王の史実を考察
  3. 悼襄王は史実を考察!美少年好き?
  4. 悼襄王の最後を考察
  5. 悼襄王の史実を考察!李牧との関係は?
  6. 悼襄王に関する感想や評価
  7. 悼襄王まとめ

趙の悼襄王とは?

趙の悼襄王の紹介・イメージ画像

「キングダム」では、政治に一切関心を持たず、臣下からも無能な王と評される趙の悼襄王でしたが、史実では、王を批判するような記録は残されておらず、その実態は謎に包まれています。以下では、「キングダム」の趙王・悼襄王の史実や、少年好きの真相、毒殺説もささやかされる悼襄王の最後、趙の宰相・李牧との関係などを考察を交えながら紹介します。

キングダムの作品情報

原泰久先生の大ヒット漫画「キングダム」は、古代中国・春秋戦国時代を舞台に、史上初の中華統一を成し遂げた秦の始皇帝の半生を題材にした歴史漫画で、2006年~2020年10月現在まで「ヤングジャンプ」で連載されています。単行本は、2020年9月時点で計59巻が刊行されており、第17回手塚治虫文化賞・マンガ大賞を受賞しました。

キングダムの概要

漫画「キングダム」は、司馬遷の「史記」を始めとする史実を元に構想がなされ、作中の登場人物や出来事の多くは、実在の人物や出来事をモデルとしています。そして、これまであまり知られなかった始皇帝(嬴政)の苦悩や、主人公・信や秦国の奮闘を壮大なスケールで描いた作風は、男性のみならず、女性からも高い支持を得ており、その人気は衰えを知りません。

また、漫画「キングダム」は、2012年からアニメシリーズが開始され、2020年4月には第3シリーズが放送されました。そして、2019年4月には、単行本・第50巻達成を記念して、山﨑賢人さん主演による実写映画が上映されました。2020年5月29日には、待望の映画続編の制作が発表され、続編への期待が高まっています。

キングダムのあらすじ

天下の大将軍を夢みる信は、ある出来事がきっかけで、若き秦王・政と出会います。後に王都奪還戦での功績を認められ、下僕から平民になった信は、秦軍に入隊を果たし、数々の戦を経てながら夢へ近づきつつありました。そして、もう1人の主人公・政も、秦国の政争を制し、史上初の中華統一に向けて、大国・6国との壮絶な覇権争いに身を投じます。

悼襄王のプロフィール

「キングダム」の趙王・悼襄王は、紀元前244年に即位・紀元前236年に崩御した実在の趙王をモデルとしています。40万人以上の兵力を失った長平の戦いでの敗北により、衰退の一途を辿る中で即位した悼襄王は、政治に一切の関心を持たず、国や民を顧みない様から、臣下からは「愚かな王」と評されています。

また、「キングダム」では、贅沢な宮廷生活を満喫し、春平君を寵愛し、桃泉殿の湯治には多くの美少年たちを侍らせるなど、少年好きな一面もあります。そして、644話にて、桃泉殿で倒れ、大量出血による壮絶な最後を迎えました。

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悼襄王の史実を考察

悼襄王の史実を考察・イメージ画像

「キングダム」の悼襄王は、古株の廉頗や李牧から「愚かな王」と評されるほど政治に関心をもたず、美少年たちとの贅沢な宮廷生活を満喫する姿に描かれました。しかし、史実では、悼襄王に対する臣下の評価や、桃泉殿での出来事は一切記録されていません。以下では、「キングダム」の悼襄王の史実を考察しました。

史実①即位後に廉頗が出奔

紀元前244年、父である孝成王の崩御に伴い、悼襄王が即位します。そして、その手始めに、魏の繁陽の侵攻を行なっていた廉頗の解任を言い渡します。廉頗の解任理由について、一説には廉頗と仲の悪かった郭開の策略や、恵文王の代から仕える廉頗が高齢に達してたためとも言われています。一方で、新たな政治体制を確立させるにあたって、古株の廉頗が目障りだったとも考えられます。

廉頗の解任は、長平の戦いから3年前にも命じられ、その時は素直に更迭に従った廉頗でしたが、今回ばかりは納得がいきませんでした。そして、後任として魏の侵攻を担っていた楽乗に攻撃、彼を敗走させてから魏へ亡命しました。後に、悼襄王によって趙へ呼び戻された廉頗でしたが、趙に戻ることはありませんでした。一方、「キングダム」では、秦の大将軍・王騎が、趙の龐煖・李牧に討たれた時期にあたります。

史実②龐煖を将軍に任命する

紀元前243年、北方の異民族・匈奴に対する守備を任されていた李牧が将軍に任命され、燕への侵攻と、武遂・方城を落とすことに成功し、紀元前242年には、学者の龐煖を将軍に起用しています。「キングダム」では、武神などと讃えられる龐煖ですが、史実では、悼襄王の曽祖父・武霊王の時代から仕える古参であり、罷免された廉頗より年上だったと考えられます。

龐煖の登用理由を考察・イメージ画像

そのため、高齢を理由とする廉頗の解任とは矛盾が生じる一方で、趙では、廉頗に次ぐ人材がいなかったことから、やむを得ず龐煖を登用した可能性が高いでしょう。

史実③劇辛を返り討ちに

龐煖の将軍任命は、隣国の燕にも伝わり、老齢の龐煖が将軍に任命されたことや、昔の龐煖を知る劇辛の評価により、燕軍では趙の侵攻を侮りきっていました。そのため、龐煖率いる趙が燕に侵攻してきた際、燕の将軍・劇辛は返り討ちにされています。

史実④合従軍で秦を攻める

劇辛を討ち取った翌年、趙は龐煖と楚の宰相・春申君による秦の侵攻が話し合われ、趙・楚・魏・燕・韓の合従軍による函谷関の戦いに発展します。また、趙の龐煖を将軍とする趙・魏・楚・燕による秦の蕞(さい)攻めが行われます。しかし、龐煖が蕞を抜くことが出来なかったことや、春申君の敗北により、これ以降、合従軍が結成されることはありませんでした。

一方、「キングダム」では蕞に秦王・政による民衆への鼓舞が大々的に描かれており、秦にとって華々しい勝利となったでしょう。その後、翌年には、傅抵と慶舎が趙の将軍に任命されています。2人の記述は、史実ではこの出来事しか記録されておらず、功績や任命理由などは不明とされています。一方で、悼襄王のお気に入りだった可能性は高いでしょう。

史実⑤成蟜が秦軍を率いて趙を攻めた?

史実では、悼襄王6年の時に、秦王政の弟・成蟜による秦軍の侵攻があった記録が残されており、後に秦に対して反旗を翻し、屯留で反乱を起こしたことが伝わっています。疑い深いとも伝わる秦王政の性格や異母兄弟という関係から、成蟜にとって秦国内にとどまることは、常に自分の命が狙われるか分からない危険な状態を意味します。

しかし、突然に亡命を決行することは、秦王政の警戒心を強める結果を招いてしまいます。そこで、秦の重鎮に怪しまれずに秦を出る口実として趙への侵攻が浮上し、結果、成蟜は秦に反旗を翻すことに成功しています。そして、成蟜の趙侵攻の背景には、悼襄王と通じていたと考えられ、その年に長安君(成蟜)を饒に封じたという趙の記録から、2人が通じ合っていた可能性が高いでしょう。

史実⑥魏から鄴を貰い受けた

魏から鄴を貰い受けるから・イメージ画像

趙では、悼襄王6年に、魏から鄴を貰い受けたことが記録されています。当時の魏には、信陵君のような優れた人材がいなかったことや、秦の将軍・蒙驁によって魏の東部を奪われてしまい、衰退の一途を辿っていました。魏の重要拠点であった鄴を趙に譲り渡したことは、趙との合従を結ぶと共に、秦の矛先を趙へ向けさせようとした、魏の策略とも考えられるでしょう。

鄴へ繋がる大河・イメージ画像

一方、趙側では、魏の思惑を読み取った上で鄴を貰い受けたのか、その真意は記録に残されていませんが、大河付近に立地する鄴は、水上輸送にも便利な場所であり、首都・邯鄲に次ぐ重要拠点としています。そして、魏から趙へと渡った鄴は、後の時代の王朝の首都として重宝されました。

史実⑦趙の宰相が秦へ

「史記」や「戦国策」によると、悼襄王8年に、趙と斉の使者が秦に向かった記録が残されています。「キングダム」では、趙の使者として李牧が秦に送られた描写となっていますが、史実では趙の使者に関する情報は残されていません。また、趙への侵攻を目論んでいた秦は、趙の使者に秦王が燕を憎んでいると信じ込ませ、趙の燕への侵攻を促しています。

そして、秦の策略に引っかかった趙は、龐煖による燕攻撃を開始し、趙の動きを察した秦では、すぐさま燕との同盟を結び、趙の鄴重要拠点・鄴への攻撃を開始します。

史実⑧鄴を秦に奪われ陥落

紀元前236年、龐煖率いる燕侵攻が開始され、趙軍は貍・陽城を落とすことに成功します。しかし、趙の主要戦力の多くは、龐煖と共に燕へ向かっており、味方の戦力が圧倒的に不足している隙を突かれて、秦からの鄴侵攻を許してしまいます。龐煖はすぐさま南下を試みるも間に合わず、鄴の陥落により趙は国土を大きく失いました

一方、「キングダム」では、趙の首都・邯鄲と南に位置する鄴との間の朱海平原にて、趙の李牧・秦の王翦による戦いが繰り広げられましたが、この場面は史実に記録がないため、原作者の創作と考えられます。そして、紀元前236年は、趙にとって要所・鄴の陥落と、悼襄王の崩御が相次いで起き、趙の勢力はさらに衰退していきました。

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悼襄王は史実を考察!美少年好き?

悼襄王の美少年好きを考察・イメージ画像

「キングダム」では、大の美少年好きという設定で描かれた悼襄王でしたが、史実では少年好きだったという記録がない一方で、ある人物との男色関係を匂わせる記録が残されています。以下では、史実の悼襄王も美少年好きだったのかを考察しました。

悼襄王はキングダムでは少年好きとして描かれている

漫画「キングダム」の登場キャラクター及び劇中での出来事は、史実を元に描かれており、趙・悼襄王も実在の人物をモデルとしています。一方、「キングダム」での悼襄王と言えば、臣下からも「暗王」と評されるほど政治に関心がなく、お気に入りの美少年たちを侍らせて、贅沢な日々を満喫しているイメージが強いでしょう。

そして、「キングダム」では、数多くの美少年の中から、春平君を寵愛していたことが判明しています。しかし、悼襄王の美少年好きは、他国での知られており、「キングダム」では、趙を貶める手段として、秦による春平君拉致が発生しています。そして、寵愛する少年との交換条件として、宰相に迎えに来させることを悼襄王に要望しました。

悼襄王は史実でも少年好きだった?

悼襄王の史実の記録・イメージ画像

歴史を紐解くと、いわゆる男色関係は、現代よりも寛容に受け入れられており、日本でも武士階級を中心に見られていたことが、記録に残されています。そして、「キングダム」では大の美少年好きとして描かれた悼襄王も、史実では男色関係を匂わせる記述もあり、春平君こと春平候を寵愛していたことが、確認されています。

史実の春平君を考察・イメージ画像

しかし、悼襄王の男色関係は、「キングダム」のような派手なものではなく、作中では家臣という設定の春平君は、史実では悼襄王の兄とされています。そして、書簡を貰うべく秦に出向いたことは事実である一方、史実では、春平君は秦に拉致されておらず、趙に送り返されたことが記録されており、「キングダム」では脚色されて描かれています。

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悼襄王の最後を考察

悼襄王の最後・イメージ画像

王としての無能さから、臣下による暗殺の動きも見られた趙王・悼襄王でしたが、彼の最後は「キングダム」の644話で描かれ、その壮絶な最後に多くの考察が飛び交っています。以下では、「キングダム」の悼襄王の最後を考察しました。

悼襄王は臣下に殺害される?

悼襄王の最後は、趙王に不満を持つ臣下による殺害がもっとも有力視され、李牧の斬首が決定された際には、舜水樹たちによる李牧の救出と、悼襄王の殺害計画も浮上しました。

考察①臣下に殺害される?

悼襄王の愚かさは、古株の廉頗や宰相・李牧だけでなく、趙の将軍・扈輒からも厳しく批判され、舜水樹は王に対して怒りも覚えています。そして、李牧の斬首が公表されると、臣下に不穏な動きがみえはじめ、李牧を救出する手段として、悼襄王の暗殺がささやかれます。

考察②趙王に直訴したその場で剣を抜く手段

悼襄王の殺害・イメージ画像

悼襄王の暗殺について、いつ、どこで、どのタイミングで剣を抜くのか、綿密な計画が欠かせません。そこで、考えられたのが、李牧の斬首を思いとどまるように、趙王に直訴したその場で剣を抜き、暗殺を決行する案が浮上します。しかし、この計画には欠点があり、もし、悼襄王との面会前に武器を預ける羽目になれば、暗殺は不可能であり、懐に忍ばせた短刀も取り上げられる可能性もあります。

情報の漏えい・イメージ画像

そして、悼襄王の取り次ぎの者を買収しても、彼らを通じて悼襄王の暗殺計画が漏れる危険性もあります。一方で、家臣からも「愚王」と評される悼襄王の性格から、短刀を突き出して脅せば、悼襄王を屈することができ、李牧を解放できるとも考えられます。

考察③趙王を暗殺する?

悼襄王に直訴した場所での暗殺は、情報漏えいなどのリスクから、計画を遂行させることは難しく、暗殺集団を雇うことも考えられます。「キングダム」では、蚩尤出身の羌瘣や朱凶・号馬などの刺客が登場しており、彼らを利用することで、自分の手を汚すことなく、悼襄王を亡き者にすることができます。

考察④軍事衝突

李牧救出にあたり、舜水樹たちによる軍事クーデターも可能性として浮上しています。また、王都軍の守護者こと扈輒将軍も李牧派なので、悼襄王の敗北は目に見えているでしょう。しかし、軍事衝突は、趙軍の戦力を失うリスクもあるため、舜水樹によっても避けたい選択肢でしょう。

悼襄王は病死する?

「キングダム」では、国の行方を顧みない言動から、「暗王」とも称される悼襄王ですが、作中では病がちな王として描写され、悼襄王の最後は病死ではないかとも考察されています。

考察①悼襄王は病気がちで体が弱かった?

悼襄王の寿命・イメージ画像

「キングダム」では、病弱体質という設定で、悼襄王の愚かな発言には、自分の寿命が長くないことを臣下に知らしめていると、捉えられます。そして、少年たちとの湯治の場面では、頻繁に盃をかたむける仕草を見せています。少年たちのセリフからお酒とも推測される一方、当時の習慣から、お酒に溶かした薬を飲んでいたとも考えられます。

考察②李牧が陣頭指揮を取る?

悼襄王の最後が病死だった場合、趙内部の混乱や、それらに乗じて他国や、北方の匈奴からの侵攻が想定されます。そこで、匈奴との戦いで実績のある李牧が注目され、匈奴の侵攻に備えて陣頭指揮を取るために、斬首を逃れることができるでしょう。

悼襄王は毒殺だった?

毒を盛られる・イメージ画像

「キングダム」644話で描かれた悼襄王の死から、毒殺説が有力視されています。しかし、悼襄王の死因は、作中では明確にされておらず、病気の悪化とも考えられます。一方、悼襄王の最後が毒殺によるものだった場合、誰が毒を盛ったのか、この点が重要になります。そして、その最初の候補として、苦しむ悼襄王を冷ややかな目で見ていた桃泉殿の少年たちが浮上します。

お酒を飲む・イメージ画像

彼らは、悼襄王にお酒を注いでいましたが、王のお酒の飲み過ぎを心配していたことや、桃泉殿の外から毒入りのお酒を渡されたことが想定され、少年たちによる毒殺の可能性は低いでしょう。また、悼襄王暗殺を目論んでいた李牧派も、王に歯向かう逆賊と見なされ、趙国での立場が不利になってしまうため、考えにくいでしょう。

そして、李牧の処刑を取り下げるように直訴していた太子・嘉も毒殺犯として浮上するも、彼の性格から父王を暗殺することはできないでしょう。悼襄王の最後が毒殺によるものだった場合、王が死ぬことがで一番得する人物による犯行が考察できます。そして、その人物とは、次期趙王に指名された末子・遷の母親こと江姫が浮上します。

史実によると、江姫こと悼倡后は、人を使って太子嘉を罪に陥れることで、我が子・遷を太子に立て、自らも后に就いたことが記録されています。「キングダム」では、江姫の動向について、詳細が明らかにされていませんが、悼襄王の最後には、江姫が深く関わっていたとも考察されます。

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悼襄王の史実を考察!李牧との関係は?

「キングダム」では、趙の宰相にまで上り詰めた李牧でしたが、朱海平原での敗北や郭開の台頭により、次第に悼襄王との対立を深めていきました。以下では、史実の悼襄王と李牧の関係について考察しました。

李牧を将軍に任命

「キングダム」では、趙の宰相として活躍する李牧でしたが、史実では彼が宰相になった記録は残されていません。一方、北方の匈奴を打ち破った功績は、史実通りのエピソードであり、これらの実績が悼襄王に認められた李牧は、将軍として燕の武遂・方城を攻めたと伝わっています。

李牧に燕を攻めさせた?

北方の守備を任されていたイメージが強い李牧でたが、かつて燕軍・60万の軍勢に対して、廉頗の副将として活躍した記録が、「東周列国志」に残されており、李牧が燕侵攻に加わっていたことを示しています。

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悼襄王に関する感想や評価

悼襄王に関する感想や評価・イメージ画像

桃泉殿での衝撃的な最後や、滅亡への一途を辿る趙国の運命から目が離せない、趙王・悼襄王に関する感想や評価を紹介します。

感想1:悼襄王の最後に衝撃

「キングダム」では、君主らしからぬ言動で、「暗王」とも言われた悼襄王でしたが、その壮絶な最後は、キングダムで一番過激なシーンとも称されました。そして、もだえ苦しむ悼襄王を冷ややかな目で見る少年たちの姿は、多くの読者に衝撃を与えています。趙国内の動きから、臣下による暗殺が予想されましたが、毒殺とも捉えられる悼襄王の死は、誰もが予想できなかった結末だったでしょう。

感想2:悼襄王の死後の展開が気になる

悼襄王の死は、史実に沿った展開となりましたが、王の後継者・遷のインパクトある登場は、キングダムファンに更なる衝撃を与えました。奴隷を家畜のように扱う遷の横暴ぶりは、悼襄王を超える強烈なキャラとも称されており、斬首を免れた李牧のその後や、趙滅亡までの展開など、今度の動向からますます目が離せないでしょう。

感想3:主君に恵まれない李牧

「キングダム」では、有能な人物として描かれた李牧でしたが、劇中では悼襄王の怒りに触れて、処刑寸前まで追い込まれ、史実では遷こと後の幽繆王に殺害されたことが記録されています。悼襄王の死を受けて、趙国内の政治体制も変わりつつある中、最後は無念の死を遂げる運命が約束されている李牧と、彼を死に追いやった幽繆王との関係にも注目したいでしょう。

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悼襄王まとめ

悼襄王まとめ・イメージ画像

「キングダム」の趙王・悼襄王の史実や、少年好きの真相、壮絶な最後、宰相・李牧との関係などを考察しました。「キングダム」では、臣下から「愚かな王」と評され、寵愛する美少年たちからも見放された、悼襄王の壮絶な最後は、作中屈指のインパクトを与えました。同時に、悼襄王の不可解な最後は、ファンの間で多くの考察が飛び交っています。

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