【キングダム】蒙驁は白老と呼ばれる大将軍!最期や史実での人物像を考察

春明戦国時代において屈強な武人を描くことの多い『キングダム』。中でも大将軍として異彩を放つ人物が「蒙驁」です。温厚な性格により白老と呼ばれ、大きなプレッシャーがかかると不思議な癖だ出る、といった人間臭いところが読者を魅了しています。蒙驁は廉頗に幾度ともなく負け続けているのですが、史実を見るとこのような記録はないようです。ここでは、蒙驁の最期や史実での人物像を考察していき、どれほどの人物だったのか魅力に迫ります。

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目次

  1. 蒙驁は白老と呼ばれる大将軍
  2. 蒙驁の最期
  3. 蒙驁の史実での人物像を考察
  4. 蒙驁の2人の副将
  5. 蒙驁に立ちはだかる壁・廉頗
  6. 蒙驁に関する感想や評価は?
  7. 蒙驁は白老と呼ばれる大将軍まとめ

蒙驁は白老と呼ばれる大将軍

屈強な武人が将軍として描かれることの多い『キングダム』。その中でも異彩を放つ大将軍・蒙驁がいます。斉国で生まれた蒙驁は、祖国で才能を開花できませんでしたが、息子である蒙武と共に放浪の末に流れ着いた秦で、大将軍まで成り上がるという経歴でした。史実にも蒙驁について書かれているので、実際はどのような人物だったのかを確認していきましょう。それではまず『キングダム』の作品情報や蒙驁の簡単なプロフィールを紹介します。

キングダムの作品情報

キングダムの概要

『キングダム』は原泰久による歴史漫画で、2006年9号から「週間ヤングジャンプ(集英社)」にて連載されています。単行本は39巻まで発刊され、その後2012年6月からNHK BSプレミアムにて1期(全38話)が放送されました。2013年6月には全39話として2期が放送されています。

春明戦国時代を舞台とした歴史漫画であり、テレビアニメ1期の放送を記念して製作された「ソーシャルキングダム」では「史上最多数人数」で描いた漫画としてギネス世界記録に認定されています。

キングダムのあらすじ

ここでは『キングダム』のあらすじを簡単に紹介します。時は春秋戦国時代、紀元前まで遡ります。この時代では、中華西方の国である秦で500年の争乱が続いていました。そんな秦国の片田舎に信と漂という二人の戦争孤児がいます。

奴隷の身分であるものの、二人はいつか武功を積み上げて天下の大将軍になることを夢見ており、二人で修行に明け暮れる毎日を送っていました。ある日、偶然にも二人の前に秦国の大臣に会ったことで、秦国の大将軍となる道が切り開かれていきます…。

蒙驁の生い立ち

蒙驁は秦国の大将軍といった位置にいますが、出身は斉です。息子である蒙武と共に中華の各国を放浪していた結果、秦国に流れ着いたようです。というのも、秦国では大将軍になるまでは、際立った戦績を残すことができなかったからです。

蒙驁の家系

秦国の大将軍である蒙驁の家系は才覚に溢れた子孫を輩出しています。蒙武(もうぶ)といった息子は秦国将軍の中でも最強の武力の持ち主で、孫の蒙恬(もうてん)と蒙毅(もうき)は秦国を背負っていく名将です。蒙驁は大きな体格が特徴なのですが、この体格を蒙武は受け継いでいるようです。そして、蒙毅は河了貂(かりょうてん)の兄弟子である軍師、そして蒙恬は信の戦友でありライバルである武将です。

蒙驁の性格

蒙驁は穏やかな性格をしています。常に落ち着いた姿勢をしており、味方や部下に対して激昂することがなく、好戦的な秦国の武将が多い中では珍しい性格であるといえます。このような性格なため、部下からの信頼は厚く、また他の武将が蒙驁の悪口を言うようなシーンは描写されていませんでした。

部下の才覚を見抜いた蒙驁

蒙驁には「部下の才覚を見抜く力」があります。戦において2人の天才と呼ばれる人物が登場しますが、その2人が桓騎(かんき)と王翦(おうせん)です。蒙驁はこの二人を副将として据えています。ただ、性格に難がある人物なのですが、この二人も蒙驁将軍には文句一つ言わずに付き従っており、やはり穏やかで誠実な性格を持つ将軍に、癖のある桓騎と王翦も惹きつけられたのかもしれません。

蒙驁の不思議な癖

蒙驁には不思議な癖があります。廉頗(れんぱ)との一戦を前に描かれており、大きなプレッシャーを感じた時に癖が出るそうです。「大将軍の甲冑を脱ぎ、小汚い老人歩兵に化けて陣内を徘徊する」と言われていました。廉頗とは過去に負け戦を繰り返していたため、ナーバスになっていたそうです。癖により徘徊している時は、主人公である信と出会い、信に「ケンカってのは最後に立ってた奴の勝ちだ」と言われ、勇気づけられていました。

キングダム特設サイト|週刊ヤングジャンプ公式サイト

蒙驁の最期

蒙驁の史実を見ていく前に、まずは蒙驁が史実においてどのような最期を迎えたのか、そして『キングダム』における最期までを紹介していきます。

紀元前240年に死亡

史実では、蒙驁は紀元前240年が最期の年だとされています。紀元前241年(前年)には春申君が合従軍を形成して秦で起こった「函谷関の戦い」があります。また春申君に連動してか、秦を攻めたてた「蕞の戦い」が龐煖(ほうけん)によっておこなわれました。ここで、可能性として蒙驁が戦の指揮が浮上します。もしくは翌年が最期の年なので、病気によって既に引退していた可能性もあります。

ただ、函谷関の戦いは秦国が勝利を迎えているので、この勝利を目にして蒙驁は最期を迎えたと考えられます。余談になりますが、蒙驁の最期の年は世界最古のハレー彗星が確認されており、このハレー彗星は何かの吉兆や不吉な物事がある時に現れると言われています。また、三国志の諸葛孔明の最期の年にも彗星が流れたと言われているので、彗星と英雄の死は何かしらの関係があるのかもしれません。

人に愛された大将軍の最期

『キングダム』では、蒙驁の最期に信と蒙恬が駆けつけていました。最期を迎える蒙驁は夢を見ており、その夢では秦国六大将軍にどうしても追いつけない無力な自分がいました。そんな最期の瞬間に信と蒙恬が到着したのですが、この時に蒙驁は六大将軍と同じ世代であった運のなさや、一方であこがれ続けた彼らへの想いを打ち明けました。そして、「蒙恬と信と王責の三人で一緒に高みに登れ」と言葉を残し最期を迎えました。

この言葉は、自分を大将軍まで成長させてくれた3人の将来の道を示しているようです。蒙驁の最期の瞬間、屋敷の外にまで溢れかえった人が涙する姿がありました。このことから、蒙驁が皆に愛され、優しく送り出された最期であったといえるでしょう。

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蒙驁の史実での人物像を考察

それでは早速、史実における蒙驁の活躍を追っていき、人物像を考察していきます。『キングダム』では部下からの信頼が厚く、大将軍として大活躍を見せていますが、史実とはどのような違いがあるのかを具体的にしていきます。

史実上は大活躍の蒙驁

史実上、秦国で大活躍の蒙驁だったわけですが、斉から移った理由は明らかにされていません。ただ、兵法などは斉で学んだのではないかと考えられます。斉という国は呉王闔閭(こうりょ)の元で類稀なる戦術家と言われた孫武の出身地であり、さらに子孫である孫臏も斉の軍師として活躍していたからです。そのため、斉の首都である臨淄(りんし)などは、兵法に関する学問が進歩していたといえるでしょう。

このような文化を背景にし、蒙驁も斉で兵法を覚えたのではないかと推察できます。その斉の史実では、湣王(びんおう)の時代が非常に強力な勢力であると記されていました。しかし、斉は秦の昭王の恨みを買い、合従軍(秦、燕、韓、魏、趙)に敗れて壊滅的な打撃を受けてしまいます。

『キングダム』では、蒙驁が廉頗に敗北し続けたために、斉での出世を諦めて秦に移ったということになっていますが、史実を見ると実際は斉の王族や貴族の勢力が強大だったからだと推察できます。あるいは秦以外の国である斉、楚、趙、魏、韓、燕は勢力が衰えており、功を立てることができないと判断したからこそ、強大な勢力を誇る秦に移ったとも考えられます。

成皋を取った蒙驁

紀元前249年、蒙驁は史実で初めて登場しています。この年は秦の第30第の君主である荘襄王(そうじょうおう)が国を治めており、王侯は宰相である呂不韋と深い関わりがあるので、呂不韋が蒙驁を将軍に推薦した可能性があります。蒙驁は韓を攻め、成皋を取ったと史実に書かれていました。なお、成皋は重要な拠点とされており、趙、魏、韓に土地が分割された時に、韓の君主である韓康子は家臣に対し成皋を必ず取るように進言しています。

また成皋は楚漢戦争時代において、項羽と劉邦が争った土地でもあるので、その重要性がうかがえます。実際に韓は成皋を拠点として鄭を滅ぼし、その後鄭の首都である新鄭を韓の首都としているのです。つまり、成皋を支配下に治めたことは、韓の韓の首都を間接的に脅かすことになり、韓の滅亡も見えてきたということになります。これには秦が天下統一を図るうえで重要な意味になるといえるでしょう。

37の城落とし

成皋を取ったあとも蒙驁は休むことなく、次々と城を落としていったと史実に書かれています。落城の数は計37。趙の楡次、新城、狼孟や魏の高都と汲を攻めていったようです。どのような過程で城を攻め落としたのかは史実に残っていませんが、奮戦したことは間違いないでしょう。最強の名将と呼ばれる白起が、大小61の城を陥落したとありますので、比べるとその凄さが分かります。この記録に次ぐ戦績だったのではないかと考えられます。

信陵君に敗れた蒙驁

将軍になってから2年間は猛威を振るってきた蒙驁でしたが、3年目に初めて躓くことになります。魏の公子である信陵君は趙にいましたが、魏に帰国したと同時に合従軍(魏、趙、韓、楚、燕)を率いて秦に攻め込んできたのです。ちなみに、信陵君は戦国四君と呼ばれた孟嘗君、春申君、平原君などと共に多くの食客を集めたことで有名です。

また、趙の邯鄲が秦に囲まれた時、信陵君は将軍である晋鄙の兵権を奪い取って趙の救援に駆け付けています。この行動によって秦を打ち破るなど絶大な戦績を挙げています。そんな信陵君が率いる合従軍が攻め込んできますが、この時に秦は蒙驁と王齕に対峙させます。史実によると、蒙驁は黄河の外で敗れたようです。

37もの城を落とした蒙驁でしたが、史実では名将扱いされていません。この戦いで信陵君に敗れたのが大きな原因だと言えるでしょう。なお、当時最強と呼ばれた秦軍を破ったとして、信陵君の武威は天下に鳴り響いています。

反乱の鎮圧

信陵君に敗れた蒙驁でしたが、士気が損なわれることなく、翌年も戦に明け暮れています。この時に晋陽で反乱が起きました。信陵君が合従軍を使って秦を破ったため、秦の支配力の低下に繋がったことが反乱の原因なのかもしれません。この反乱を蒙驁が鎮圧しています。

なお、晋陽は春秋時代末期に趙の趙襄子が智伯の大軍を破った因縁の地でもあります。戦いによって晋は魏、趙、韓の三国に分割されており、この戦いが戦国時代の始まりだと捉える史家もいるようです。このような因縁の深い土地が秦の領土だということから、秦以外の諸国の弱体化がうかがえます。

13の城落とし

紀元前244年、蒙驁は韓を攻めて13の城を落としたと史実に書かれています。韓はすでに成皋も蒙驁に取られているので、戦略的に不利な状況であるといえます。そして、13の城も落とされたということですから、韓は国を維持するのが困難であったはずです。また、韓には法家の韓非子がいましたが、韓王には用いられていなかったようなので、困窮状態から抜け出すための打開策は誰も打てなかったかもしれません。

最終的に韓が滅亡したのには、秦の内史(中国の官名)であった謄の功績が大きく働いたわけですが、実際問題として壊滅寸前にまで追い詰めたのは、蒙驁の働きはあってからこそだ言えなくもないでしょう。

魏の東部を奪った蒙驁

蒙驁が将軍として活動するうちに秦は秦王政(始皇帝)の時代になりました。秦は天下統一を目標に活動していましたが、それを阻害する人物が信陵君でした。そこで、秦は魏の安釐王(あんきおう)と信陵君の離間策を図ります。この離間策によって安釐王は信陵君を将軍から外します。さらに、信陵君はこの境遇に悲観し、酒と女に入り浸り、ついにアルコール中毒で最期を迎えました。

秦は信陵君が亡くなったことを知ると、早速魏の攻撃を蒙驁に命じます。蒙驁はこの戦いにより、東部の20城を奪いました。東部を奪ったわけですから、魏は壊滅的な打撃を受け、魏の滅亡も見えてきた状態となります。さらに、東部を奪ったことにより、秦と斉が国境を通じることとなったと史実に書かれています。つまり中華の半分が秦の支配地域になったといえるでしょう。

『キングダム』ではこの時に魏軍を率いたのが廉頗(れんぱ)とありますが、これは史実ではありません。史実では、魏に移った廉頗でしたが、魏王が廉頗を信用せず将軍に任命しなかったと書かれています。

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蒙驁の2人の副将

蒙驁を副将として支えていたのが「王翦」と「桓騎」です。大将軍として上り詰めた才能の一つをおおいに発揮したのがこの二人の登用です。この二人は無名に近い武将だったのですが、彼らの才能を開花させることに成功しています。ここでは、二人の武将の人物像を明らかにしていきます。

副将①王翦

蒙驁の副将である王翦は後の秦国大将軍であり、王家の当主でもある人物です。”王の座を狙う危険思想の持主”として何を考えているのか分からず、不気味な雰囲気を秘めた存在として描かれていました。史実では、キングダムと同じように宿敵の李牧を破っているので、優秀であることは間違いないでしょう。

副将②桓騎

続いて蒙驁の副将である桓騎は、”野盗集団を束ねた首領”としての経歴を持つ人物です。残忍な性格をしており、投降兵や攻め落とした城の住民であっても容赦なく殺します。そのため、首切り桓騎といった異名を持つ将軍として描かれるようになりました。『キングダム』では部下の将軍たちですらもチンピラ感満載ですが、史実ではれっきとした秦国の将軍と書かれています。

ただ、桓騎は平陽の戦いで10万人もの人々を斬首したとありますので、このことからキングダムでは首切り桓騎の異名が命名され、異様で危険な雰囲気を持つキャラクターとして描かれたのかもしれません。

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蒙驁に立ちはだかる壁・廉頗

同じ世代の蒙驁と廉頗

『キングダム』では、蒙驁と廉頗は同じ世代で、駆け出しの若者だったころから幾度となく戦いあっているライバルとして描かれています。蒙驁は伍長、百人将、三百人将、千人将と次々と名声を獲得していくのですが、廉頗だけには一度も勝つことができませんでした。廉頗とは、蒙驁にとってどうしても越えられない大きな壁だったのです。

廉頗に勝利できなかった蒙驁

一度も廉頗との対決で勝てなかった蒙驁。蒙驁軍は魏の城である高狼、虚中、虚西を部下の活躍によって次々と攻め落としていきますが、魏王である景湣王はこれに対応すべく、蒙驁のライバルである廉頗を呼び出します。この情報を聞きつけた蒙驁ですが、動じることはありません。いや、動じないように振舞っていました。この時の蒙驁では廉頗に勝つ策が見当たらなかったのです。

必死に考えた末、ようやく一つの策を思いつきます。それが”守備”を固めることであり、本陣が破られない限り、戦では破られることがないというものでした。そこで、蒙驁は兵に向かって「わしを守り抜けばおのづと勝つ」と言い放ちました。

覚悟を決めた廉頗との戦い

蒙驁と廉頗の戦いの序盤は一進一退でした。が、廉頗の才覚は揺るぎないもので、副将である王翦は砦で足止めをくらってしまいます。さらに、もう一人の副将である桓騎は行方が分からないままです。そして、ついに廉頗は本陣の背後を襲うことになります。もはや蒙驁軍が破られるのは時間の問題。蒙驁はこの窮地を前にして「これこそが蒙驁軍の戦いである」と言いました。

廉頗は本陣の背後を攻め、蒙驁との一騎打ちとなりました。蒙驁は意地を見せ奮闘しますが、ついに片腕を失ってしまいます。この時、敗北を覚悟しました。しかし、副将の桓騎が魏本陣を落とし、さらに王翦は廉頗の背後を狙います。もはや立て直しが不可能だと悟った廉頗は負けを認め、和陸を申し入れることになりました。ついに蒙驁は廉頗に勝利し、目的であった山陽の地を落とすことに成功します。

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蒙驁に関する感想や評価は?

蒙驁の遺言についての感想です。「三人で一緒に高みに登れ」とは蒙恬と信と王責にかけた言葉ですが、これは蒙驁が廉頗とライバル関係にあったからこそ生まれたものだといえるでしょう。この言葉に対し、”尊敬し合う事”と捉えているようです。この感想のように、互いに高め合うためには必要なことだと言えるかもしれません。

戦いのカギとなるのは蒙驁だと言われています。このシーンを見ても、蒙驁と部下との信頼関係が厚く、尊敬されていた人物であることが分かります。また、過去からも蒙驁が重要な存在だということがうかがえます。

蒙驁の登場により『キングダム』が涙なしでは読めないとの感想が挙がっています。蒙驁は王騎に「天下の大将軍」と言われ、蒙恬からは「一番の英雄でした」と言われていました。また、蒙武の「親父殿」といった言葉。感想のとおり、これらのシーンは感動すること間違いなしといえるでしょう。

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蒙驁は白老と呼ばれる大将軍まとめ

蒙驁に関する史実から人物像、蒙驁の最期までを紹介してきましたが、いかがでしたか?『キングダム』の蒙驁は部下からの信頼が厚く、尊敬されるような存在でした。そして、史実から見ても多大なる戦果を挙げていることから、『キングダム』と同じように部下から信頼されていたと想像できます。感想にあったとおり、涙なしでは見れない蒙驁のシーンは満足すること間違いなし。今後の『キングダム』も必見です!

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