火垂るの墓の舞台はどこ?ロケ地やモデルになった場所を紹介【神戸・西宮】

火垂るの墓のあらすじをもとに、舞台となった神戸や西宮の町を紹介します。明確に地名が出てくる箇所をもとに、明確には語られない地の現代での場所を特定していきます。火垂るの墓は実際の地名がわかりやすく、スタジオジブリの作画力をもって再現された写実的な描写により、場所がどこなのかを特定することが比較的容易です。神戸三宮~御影~西宮と阪神・阪急沿線を使うことで舞台となっている聖地巡礼が比較的容易に可能なこともあり、巡礼を目的とした方にむけたまとめを行います。

火垂るの墓の舞台はどこ?ロケ地やモデルになった場所を紹介【神戸・西宮】のイメージ

目次

  1. 火垂るの墓の舞台はどこ?神戸や西宮などモデルとなった場所を紹介
  2. 火垂るの墓とは?
  3. 火垂るの墓のあらすじを紹介!
  4. 火垂るの墓の舞台はどこ?神戸編
  5. 火垂るの墓の舞台はどこ?西宮編
  6. 火垂るの墓は実写化されていた!舞台・ロケ地はどこ?
  7. 火垂るの墓の舞台に行ってみよう!

火垂るの墓の舞台はどこ?神戸や西宮などモデルとなった場所を紹介

「火垂るの墓」は、1945年の終戦前後の混乱の時代、兵庫県神戸市・西宮市を舞台として親を亡くした幼い兄妹が必死で生き抜こうとした物語です。悲劇的な最期を迎えるこのアニメは夏がくる度に毎年話題となります。舞台となる神戸や西宮など、実際に存在した場所をモデルにすることで物語にリアリティがでています。今回は火垂るの墓の聖地をご紹介していきます。

スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI

火垂るの墓とは?

火垂るの墓は、1967年に発表された野坂昭如による小説を原作とした、スタジオジブリ製作のアニメ映画です。原作者である野坂昭如氏が自らの戦争体験をもとに書いており、1968年に直木賞を受賞しています。アニメの火垂るの墓の監督を勤めたのは、スタジオジブリの共同創設者である高畑勲さんです。高畑さんは2018年4月5日に亡くなられたことから、火垂るの墓も再度脚光を浴びています。

「火垂るの墓」は兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下で親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとします。トラウマになる人もいるほど、戦時の時代背景や人間関係をリアルに描写したアニメーションとして海外にも評価が高い作品です。

最終的に妹は軍需工場の火災で発生した有害物質を含む黒煙の雨粒を目に入れたことが原因で体力が落ち、栄養失調でなくなってしまうといった救いのない内容になっています。「火垂るの墓」は戦争の怖さを教訓とするために、8月の終戦日が近づくとよく放映される作品です。

Thumb火垂るの墓の都市伝説が怖い!もうテレビ放送されないという噂は本当? | 大人のためのエンターテイメントメディアBiBi[ビビ]

火垂るの墓のあらすじを紹介!

昭和20年の省線三ノ宮駅構内

14歳の清太とその妹である4才の節子が戦争孤児となり、必至に生きていく物語は「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」という清太の声で始まります。独りぼっちの清太は神戸の三宮駅で餓死してしまいます。清太の懐からは、節子が生前大事にしていたドロップの缶が転がり落ちます。

清太の魂が、落ちたドロップ缶を拾い上げると、そこで先に亡くなった節子と魂の邂逅を果たします。二人の魂は電車に乗って彷徨い、火垂るの光に包まれて、魂が走馬灯を見ているかのように過去を振り返りながら物語が進んでいきます。

清太の魂が回想を始めると、幸せだった生活が壊れるきっかけとなる神戸空襲にシーンが切り替わります。空襲警報がなり、心臓に病を持つ母親を先に防空壕へ行かせます。その後、母とはぐれた清太と節子は家を焼け出されてしまい、どこにも行くあてのない戦火の中を彷徨います。親戚を頼るため神戸から西宮へ向かう途中、御影公会堂の前を通り、満地谷へとたどり着きます。

親戚の家につくと、しばらくは平和に過ごすことができます。しかし、戦争が終わることはなく、だんだんと飢餓や困窮が進むにつれて清太や節子への対応が厳しいものになってきます。耐えかねた二人は、どこいく宛もないまま、親戚の家をでることにします。

家をでた2人は、そのまま満池谷町の貯水池沿いにある防空壕に住み着くことになります。清太は火垂るを見に節子を池のほとりへ連れていき、その火垂るの何匹かを防空壕に持ち帰ります。闇の中できれいに光る火垂るの瞬きは、節子が手に捕まえてみるとすぐに死んでしまいます。火垂るの墓の名シーンである「なんで火垂るすぐ死んでしまうん?」はこのときの節子の台詞です。

節子の体調が悪いので医者に連れて行くが、医者は滋養をつけるしかないと言います。なけなしの貯金をおろしに銀行に向かうと、そこで日本が戦争に負けたことを知ります。昭和20年の夏、日本は終戦を迎えることになりましたが、清太はそのことを知りませんでした。

父親が生存している可能性も失ってしまい、気が動転したまま防空壕に戻ってみると節子が衰弱しており、そしてそのまま死んでしまいます。その後、清太は物語の冒頭の三宮に向かい、戦争孤児として孤独に死を迎えることになります。

走馬灯のように過去を振り返った後、アニメの「火垂るの墓」は、清太と節子のふたりの魂が神戸の町を見下ろしているところで終わります。高畑勲監督は「清太と節子の幽霊を登場させているんですが、このふたりの幽霊は、気の毒なことに、この体験を繰り返すしかないわけです…」というコメント残しています。

Thumb火垂るの墓のラストシーン・最後が変わった?ビルの意味や節子が居たのはなぜ? | 大人のためのエンターテイメントメディアBiBi[ビビ]

火垂るの墓の舞台はどこ?神戸編

火垂るの墓の舞台・神戸編①JR三ノ宮駅

「火垂るの墓」の物語冒頭で清太が死んでしまう三ノ宮駅構内です。現在では見違えるほど綺麗になってしまいましたが、柱だけがかろうじて面影を留めています。戦争終結の当時は清太と同じような戦争孤児が存在しており、多数の子供な同じように亡くなったとされています。現代の写真からは飢餓でなくなる雰囲気はどこにも感じることはできません。

JR三ノ宮駅の中央口で、清太の落したサクマ式ドロップスの缶を駅員が投げ捨てるシーンです。何人もの孤児がなくなっている描写もあり、人の死が当たり前のように身近にあったことが伺えます。この捨てられたドロップスの缶を、魂となった清太が拾い上げます。当時は駅の前は草むらですが、現代に至っては整備されたタイル張りに変わっています。

阪急電車の三宮駅の高架の部分ですが、予想以上に面影が残っています。阪急電車の独特な色合いもあり、「火垂るの墓」の時代と現代を比較して、場所がよくわかるシーンの1つです。清太と節子の魂はここから電車で西宮へ向かいながら、生前の神戸空襲の始まりを回想します。

火垂るの墓の舞台・神戸編②御影本町6丁目・8丁目

空襲で家が無くなるまで清太と節子が住んでいたのが御影本町です。昭和20年6月5日の神戸大空襲によって町が火の海と化し、神戸は壊滅状態となりました。火垂るの墓の物語上では、空襲警報が鳴って、心臓に病気がある母親を先に防空壕に避難させ、後から清太と節子が防空壕に向かいます。爆撃が始まって一面火の海になったこともあり、道の面影は残したままですが、今では当時の住宅の面影はどこにもない街並みになっています。

戦火から逃れるために高架下の防空壕へ来たシーンです。清太と節子が避難しようとしましたが、大勢の人が詰めかけてきており2人は入れませんでした。現代では防空壕こそありませんが、高架下の面影は残っています。結果からすると、この防空壕に入れなかったおかげで兄妹の二人は生き延びたわけですが、それゆえの悲しい結末になってしまうことを思うと複雑です。

Thumb火垂るの墓は実話なの?原作者・野坂昭如の実体験との違いと真実を考察 | 大人のためのエンターテイメントメディアBiBi[ビビ]

火垂るの墓の舞台はどこ?西宮編

火垂るの墓の舞台・西宮編①石屋川駅

防空壕に入れなかった清太と節子が、石屋川沿いに公会堂の避難所を目指して歩いた川沿いの土手です。当時の光景とほぼ同じ状態で確認ができます。スタジオジブリの再現性も素晴らしく、どこの描写かがよくわかります。母親と約束していた待ち合わせ場所も「二本松」ということもあり、当時は土手沿いに松が多く植えられていたようです。空襲で一面焼け野原になったせいか、現代では松の木は当時ほど見かけません。

火垂るの墓の舞台・西宮編②公会堂

清太と節子が母親との待ち合わせ場所である御影公会堂に向かって歩いているシーンです。爆撃にあって一面が焼野原になっており、建物もほとんどが崩れ去っています。公会堂と一部の建物が残っています。現代においては、左手の川と奥に見える公会堂は面影が残っているので、場所がどこかがよくわかります。「火垂るの墓」において場所が特定しやすいシーンの1つです。

公会堂の裏手にある二本松の下で母を待つシーンです。焼け出された人たちが二本松に集まってきています。現代では石屋川公園の入口にたつ二本の松がモデルではないかと言われています。

石屋川公園には清太と節子の碑が建てられています。火垂るの墓を見て、感銘を受ける方、そしてこの地を訪れる方の多さを物語っています。火垂るの墓の聖地としてはいくつか候補がありますが、石屋川公園もその1つと言えます。

火垂るの墓の舞台・西宮編③御影小学校

清太と節子は二本松では母親とは会えず、御影小学校の避難所までたどり着きます。清太はそこで全身火傷状態で危篤の母親と会うことになってしまいます。焼け爛れた母親との再会、そして死は、「火垂るの墓」の中でも特に恐ろしく悲しいシーンです。現代でも御影小学校は存続していますが、校舎も新しくなっていて当時の悲しいイメージはなくなっています。

火垂るの墓の舞台・西宮編④回生病院・御前浜

西宮の満池谷にいる親戚の家で過ごせるようになり、少しだけ余裕のできた清太と節子が御前浜へ遊びにきたシーンです。夙川を挟んで東側と西側に砂浜が分かれています。現代版の写真は、清太と節子が遊んでいる川の西側から同じ角度で撮影した写真になっています。清太が側転しながらかけてきそうなくらい、当時の面影が残っています。

夙川を挟んで西側の海岸沿いには、回生病院が建っています。「火垂るの墓」の話しの中では、全身火傷の母親がこの回生病院へ運ばれる手はずでしたが、その前に亡くなってしまいました。建て替えが行われてしまったのと、松が植え替えられて南国風になってしまっているため当時の面影は少ないですが、昔と同じ御前浜の前に回生病院が存続しています。

夙川沿いから、回生病院が右手に見える角度で御前浜の入り口を撮影したシーンです。現代では浜の向かいには埋立地があり、高層マンションやゴミ処理施設が建っています。

「火垂るの墓」で登場する1945年当時は海水浴場でしたが、1965年に近辺の工場排水等で水質が悪化したことにより、海水浴場ではなくなってしまいました。埋め立ても行われ、道路が奇麗に舗装されて、土手がコンクリートで固められていますが、当時の面影を感じられる場所の1つです。

火垂るの墓の舞台・西宮編⑤満池谷

西宮の満池谷にいる親戚と仲がこじれて兄妹が家をでていくシーンです。このあと、清太と節子はニテコ池の横穴に住み着くことになります。この記事の後半にもでてきますが、実写版の「火垂るの墓」だと、このおばさん視点の物語になっています。アニメだけ見ているとひどいおばさんに見えるのですが、是非、実写版もみていただきたいです。

清太と節子が住んでいた横穴壕跡は、現代では跡地という名称でのみ残っており、実際の横穴を確認することはできません。物語の中ではここでカエルを取って食べていたということになります。現在では立ち入り禁止になっていますが、亀やブラックバス、ブルーギル、そしてカエルが生息する貯め池になっています。「火垂るの墓」の時代では食用ガエル(ウシガエル)がいたようですが、現代ではニテコ池でウシガエルはいません。

貯め池の周りの舗装が奇麗になっていますが、当時の面影が残っています。現代では池を挟んで山手に見えるのが、西宮、芦屋の高級住宅街です。満地谷やニテコ池周辺は当時でも高級な住宅があったようですが、現代よりも森が茂っており、自然が豊かな土地でした。

ニテコ池周辺の地図ですが、「火垂るの墓」に登場する阪急夙川の駅が左下にあり、そこから山手に上がったところにニテコ池があります。地図には「横穴壕跡」という記載もあります。ニテコ池周辺には、松下幸之助氏の光雲荘や名次庵があります。一帯には当時から高級住宅が一部存在していました。物語の終盤、ボロボロになった清太の前を通って、若者が豪邸に入って行ってはしゃぐシーンがありますが、戦災孤児になることによる悲惨さを表現しています。

火垂るの墓は実写化されていた!舞台・ロケ地はどこ?

岡山県の沙美東海岸

実は「火垂るの墓」は2005年に終戦60周年スペシャルとしてドラマ化されています。親戚のおばさん目線からみた話になっており、なんとその親戚のおばさん役は松島奈々子さんです。このドラマをみてから、もう一度アニメ映画版を見てみることをお勧めします。ちょっと、おばさんを見る目が変わってきます。

ドラマ版「火垂るの墓」のロケ地の1つとして採用されたのが岡山県です。これまで見てきたように、現代の神戸や西宮は大きく町の姿が変わってしまっているため、1945年当時の神戸や西宮を再現するのに適した土地ということのようです。ロケ地は1つではなく、他の他府県にまで及んでいます。写真はドラマにて清太と節子が連合艦隊を見ていた岡山の沙美東海岸です。

「火垂るの墓」の満池谷の街並みとしてロケ地となったのは、岡山県の吹屋ふるさと村です。おばさんの家もこの中の1つの家が採用されています。瓦屋根の1945年当時の街並みとしてうってつけのロケ地です。

広島県の春風館頼家住宅

兵庫県の御影本町にある清太と節子の実家としてロケ地となったのが、広島県竹原市本町の春風館頼家住宅です。この住宅は国の重要文化財にあたります。

神戸空襲の舞台となる御影本町のロケ地としては、広島県竹原市本町の竹原本通りが採用されています。広島では他にも清太が節子を火葬するシーンとして福山市沼隈町大字能登原の臼木山をロケ地に採用しています。

長野県の貯め池

清太と節子が2人で済むことにしたニテコ池のロケ地は、長野県諏訪郡原村中新田のため池を採用しています。防空壕の横穴はここにもありません。横穴自体は撮影セットとして撮影をしたようです。自然の貯め池が当時のニテコ池の再現にうってつけのロケ地です。

火垂るの墓の舞台に行ってみよう!

「火垂るの墓」の最後に清太と節子が現代の神戸の街を見下ろしているシーンがあります。このシーンのモチーフとなった場所が神戸市中央区にある大倉山公園です。

「神戸空襲を忘れない」と記された「いのちと平和の碑」が建っています。このように、火垂るの墓は実際の地名が明確にわかる構成になっており、神戸三宮~御影~西宮と阪神・阪急沿線を使うことで比較的容易に聖地巡礼をすることが可能になっています。是非、このまとめを参考にして巡礼をしてみてください。

関連するまとめ

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ