2018年10月28日公開
2018年10月28日更新
火垂るの墓は実話なの?原作者・野坂昭如の実体験との違いと真実を考察
映画火垂るの墓は実話なの?映画を見終わってそう思った方々は少なくないのではないでしょうか?映画火垂るの墓について調べてみるとそこには我々が知ることのなかった真実がありました。さらにそれは火垂るの墓の原作者である野坂昭如の実体験に深く関わっているということもわかりました。今回はそんな映画火垂るの墓の知られざる真実を、火垂るの墓原作者である野坂昭如の実話と照らし合わせながらじっくり考察していきます。
目次
火垂るの墓は実話なのか?原作者の野坂昭如の実体験との違いも考察!
高畑勲監督の代表作である映画火垂るの墓は、神戸大空襲で両親を亡くした兄と妹が厳しい戦火の中一生懸命生き抜くがやがて二人とも亡くなってしまうという物語です。しかしそのストーリーがあまりにも悲しく残酷でリアルな為、多くの方々がこの話って実話なの?と気になっている方も多いかもしれません。そこで今回は映画火垂るの墓が実話であるのかを原作者である野坂昭如が語った実体験と照らし合わせながら考察していきます。
火垂るの墓とは?
火垂るの墓はスタジオジブリが製作を担当し1988年4月16日に公開されたアニメーション映画です。原作は野坂昭如の短編小説、火垂るの墓であり、監督は高畑勲が担当しました。漫画やテレビドラマなども作られており、その中でもこのアニメーション映画は一般的にも高い評価となっている作品です。
イギリスでの実写映画化も噂されていましたがその計画はなくなっています。それでも国内問わず世界的に見ても認知、評価されている作品だということがわかります。
野坂昭如とは?
野坂昭如は映画火垂るの墓の原作となった短編小説火垂るの墓の作者です。火垂るの墓の他にもアメリカひじき、エロ事師たち、とむらい師たちと多くの作品を生み出しています。ちなみに先述の2作品、火垂るの墓とアメリカひじきは直木賞を受賞しています。またこの他にも童謡おもちゃのチャチャチャでは日本レコード大賞作詞賞を受賞するなど作家、歌手、タレントとその才能は多岐にわたり、衆院議員を務めたことも有名です。
火垂るの墓のあらすじ
主人公である清太14歳と妹の節子4歳は神戸大空襲で家を亡くし母は大火傷を追ってしまい生活できなくなったため、叔母の家に引き取られます。最初の頃はこころよく引き受けた叔母でしたが戦争中ということもあり食糧難の影響、また数日程度預かる予定であった清太たちの母親が亡くなったしまったことなどもあって二人の面倒を見るのが負担になっていき日に日に二人への態度が悪くなっていきます。
毎日のようにおばさんに嫌味を言われた清太と節子はおばさんと喧嘩をして家を飛び出し防空壕で二人だけで生活していくことを決心します。しかし十分な食事もできず生活環境も悪いため妹節子の体調は日に日悪くなっていきます。それでも清太は節子のために空襲で火事になっている家屋から物を盗んできたり、発疹やシラミで侵された節子のために水浴びをさせてあげたりとできる限りの面倒を見てあげます。
しかしながらとうとう節子は栄養失調が原因で力尽きこの世をさってしまいます。今まで一生懸命に面倒を見てあげていた節子を失った清太はいのちのいとがプツリと切れてしまったかのように妹のあとを追うようにして駅構内で力尽き自身も栄養失調でなくなってしまうしまいます。タイトルである火垂るの墓はそんな儚く散った二人の命を蛍の光と重ねた題名だと言われています。
火垂るの墓は実話なのか?
火垂るの墓のストーリーがあまりにもリアルなためこの話は実写なの?そう思った方は少なくなかったのではないでしょうか?この作品の原作は野坂昭如の短編小説火垂るの墓ですが、この小説は1945年にあった神戸での大空襲当時の野坂昭如本人の体験談を元に描かれているということがわかりました。
作中の話は全て実体験なのか?
しかしながら後に野坂昭如が自身のことを綴った自伝によると映画、原作である短編小説の火垂るの墓、共に史実と異なっている点が複数あることがわかりました。つまりは火垂るの墓という作品の一部は事実であるが、全てが野坂昭如の実体験のノンフィクション映画ではないということになります。
火垂るの墓の原作者の野坂昭如の実体験との違いを考察!
映画「火垂るの墓」が青年だった時の野坂昭如の実体験を元にしたお話だったということはわかりました。それでは一体ストーリー上のどの点が史実と異なっていたのでしょうか?実体験ということは清太は野坂昭如なの?節子は実在する人なの?等々疑問が浮かぶと思います。野坂昭如の実体験と照らし合わせながら一つ一つ考察していきましょう。
神戸大空襲とは?
火垂るの墓では神戸での大空襲の様子が描写されていますが実際にはどのような出来事だったのでしょうか?1945年計3度に渡り神戸を対象とした大空襲が行われています。その中でも一番被害の規模が大きかったのが6月5日の大空襲であり、火垂るの墓で描写している空襲がこれにあたります。この空襲で航空船の製造所を含む神戸全域が焼失しました。またこの三度の大空襲の他にも空襲は行われていてその数は130を超えていたようです。
清太は野坂昭如なのか?
野坂昭如の実体験を元にした作品だということは作中に出てくる清太という少年は野坂昭如本人なのか気になると思います。神戸大空襲当時の野坂昭如の年齢が14歳、そして火垂るの墓に登場する清太も14歳であることからもわかるように、清太は野坂昭如をモデルにした登場人物であることがわかります。実際に野坂昭如は当時の神戸大空襲で自分の育ての親であった養父母を亡くしており、その後は神戸西宮の親戚の家へ移っています。
妹の年齢が4歳というのは実話なのか?
映画「火垂るの墓」では清太と節子という二人の兄妹が登場します。清太は14歳、節子は4歳という設定になっていました。しかし調べてみると兄である清太の年齢は当時の野坂昭如と同じ14歳であるのに対して、妹節子の年齢は4歳ではなく、まだ言葉を喋ることもできない1歳4ヶ月という年齢であったことがわかりました。
情景を説明するにあたり妹との間に意思疎通が出来ないと小説として成り立たないという演出上の都合で年齢を変えたのかもしれませんがこの点について野坂昭如は深く言及していません。
実は妹は二人いた!
アニメの火垂るの墓にでてくる清太の妹は節子一人ですが、野坂昭如には実はもう一人妹がいたことがわかりました。野坂昭如は生後半年で張満谷家に養子に出されます。その理由としては実の父母はその時別居しており、実母は野坂昭如がうまれて2ヶ月で亡くなってしまったからです。
張満谷家では野坂昭如の他にも血の繋がっていない妹が二人いてそのうちの一人のモデルが節子であるということです。もう一人の妹は戦争前に病気で亡くなってしまったそうです。
野坂昭如の父は本当に海軍大佐なのか?
火垂るの墓の中で清太が回想するシーンがあります。その中で戦死した清太の実父が出てくるのですが海軍の巡洋艦を指揮する大佐というポジションで描かれています。それでは清太のモデルである野坂昭如の実際の父親も海軍大佐だったのでしょうか?これについて調べて見たところそのような事実は見つけられず、wikipediaを参照すると以下のような記述がありました。
野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月19日 - 昭和53年(1978年))は、日本の土木技術者、都市計画家。内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた。
この記事によると野坂昭如の父は海軍大佐ではなく、土木技術者という職を全うしたのち、最終的には当時技官としては全国初の新潟県副知事になるほどの方だったことがわかりました。ちなみにこれは実の父のお話ですが、野坂昭如を育てた養父は神戸の大空襲時に行方不明になってしまったそうです。
空襲で養母が亡くなってしまったのは実話なのか?
映画「火垂るの墓」では、清太と節子の二人の兄弟は養母に育てられていましたがその養母は防空壕に避難中空襲に遭い大火傷を負ってしまい、その大火傷が原因で数日後に命を落としてしまいます。しかしこれも野坂昭如の実体験とは違っていることがわかりました。
野坂昭如が早くに母を亡くし養子になったのは事実でしたが育ての親である養母は神戸大空襲にて大きな被害をうけるもののその後生き延びていました。しかし空襲から数年後火傷ではなく癌が原因で亡くなっています。野坂昭如は入院を知らされ費用は出しましたが、臨終に立ち会わず葬儀にも参列しなかったそうです。
叔母はひどい人ではなかった!
作中家を失った清太と節子たちは、叔母の家に引き取られます。最初こそ快く受け入れたものの戦火ということもあり食糧難の影響、当初は数日預かる予定であったであろう清太たちの母親が亡くなってしまったこともあってか日に日に叔母の態度が変わっていきます。
事あるごとに清太たちに嫌味をいい、それに嫌気がさした清太と節子は家を飛び出し防空壕で生活し始めます。しかしこれが原因で十分な生活ができず栄養失調を招き、二人ともなくなってしまいます。では実際に野坂昭如は叔母からそのような仕打ちを受けたのかというと全くそんなことはなかったようです。また作中の叔母もよくよく考えてみるとそれほど悪い人ではないという意見もあります。
火垂るの墓の真実は?
清太が妹思いの優しい青年であったのは実話なのか?
映画「火垂るの墓」では兄である清太は妹である節子に対して蚊帳の中に蛍を放してあげたり、ドロップを食べさせてあげたり、時には節子のために空襲で火事に遭っている家に忍び込み食料を盗んできたりと終始面倒を見てあげる優しい青年という感じでした。しかしながらこれについては事実と大きく異なることがわかりました。以下が野坂昭如の発言です。
ぼくはあんなに優しい兄ではなかった。わずかな米をお粥( かゆ )にして妹にやる。スプーンでお粥をすくう時、どうしても角度が浅くなる。自分が食べる分は底からすくう。実のあるところを食べ、妹には重湯の部分を与える。
この他にもちいさくて喋ることのできない妹の面倒を見るのが疎ましくなり、泣いている妹を叩いて泣くのをやめさせて脳震盪を起こさせてしまったり、妹の太腿に食欲をいだいてしまったりしたそうです。このように実際にはアニメの清太のような妹想いなとても優しい青年というわけではなかったそうです。
しばらくは神戸西宮のおばさんの家で過ごした野坂昭如でしたが、その後神戸から福井に疎開します。福井に疎開すると食糧難は神戸の時よりも酷くなり、先述のように自分の腹を満たすために妹の分の食事まで取ってしまったり、妹の粉ミルクをも飲んでしまったこともあったそうです。
そういったこともあり妹は火を追うごとにやせ細っていって、ついには骨と皮だけになり、野坂昭如の腕の中で息を引き取ったそうです。これらのことはわが桎梏の碑にて野坂昭如が語っています。
清太の優しい性格の描写の理由
作中の妹想いのやさしい清太と野坂昭如には大きな違いがあったことがわかりました。しかしなぜ清太の性格はこのような描写になったのでしょうか?その理由を野坂昭如は当時の妹に対する贖罪と本当はこうしてあげたかったという願望を込めた結果清太のあの優しい性格になったと述べています。
これだけだと野坂昭如は優しくないと思うかもしれませんが、作中にもあった蚊帳の中にホタルをはなしてあげる描写や、妹を荼毘に付しドロップ缶に遺骨をいれて持ち歩いていたことなどは全て本当のことだそうです。
火垂るの墓の矛盾とは?
映画「火垂るの墓」を視聴した人たちの中でこの作品に対して異議を申し立てた人がいました。それは誰かというとこの作品の制作会社であるスタジオジブリの宮崎駿監督です。宮崎駿監督は火垂るの墓を見てこの作品にはある矛盾点があると指摘しました。
映画内の清太の回想シーンから清太の父親は海軍の大佐という偉い身分であったことがわかります。清太の父は戦争で亡くなってしまいますがそのような身分の方が亡くなった場合には親族に補償金が支払われたり保護があったりするはずです。それなのに海軍大佐を父に持つ清太と節子が飢え死にするのはおかしいという内容のものでした。
確かに映画内のシーンでも清太が母から預かった7000円の貯金が入った通帳からお金を引き出す場面があります。7000円は今の時代に換算すると1000万円近い金額になるそうで、それだけの金額があれば食料を買うこともできるだろうし病院で節子を見ることもできたであろうともいっています。清太たちは防空壕で暮らしていましたがそのような生活も送らずに済んだのではないかということです。
宮崎駿監督の指摘に対して火垂るの墓を担当した高畑勲監督はある明確な目的を持ってこうした脚本にしたとしています。その目的とは清太のように社会との関わりを断ち孤立する選択を取ると生きていけないというメッセージを現代の若者たちに伝えることであったと言います。
また一説によると当時は全ての食料が配給制であり、いくらお金を持っていたとしても食料を手に入れることができなかった為、映画の内容は特に矛盾というほどでもないという意見もありました。
火垂るの墓は原作者の実話に基づいた話だった!
いかがだったでしょうか?火垂るの墓のリアルなストーリーは原作者野坂昭如の実体験に基づいた話であることがわかりました。
またそれと同時にこの作品は高畑勲監督の現代の若者たちへ向けたメッセージや野坂昭如の当時の妹に対する贖罪と、本当はしてあげたかった願望が表現された結果このような多くの人々に深く考えさせる作品になった要因ではないかと言えます。火垂るの墓という作品は今後も何世代にもわたって戦争の悲惨さを語り継ぐ素晴らしい作品と言えるのではないでしょうか?