火垂るの墓のラストシーン・最後が変わった?ビルの意味や節子が居たのはなぜ?

火垂るの墓、毎年8月にロードショーで放映されています。火垂るの墓は誰もが見て最後は涙した事でしょう。しかし、近年ラストシーンが変わったと囁かれています。感動のラストシーンは本当に変わってしまったのか?火垂るの墓の最後で節子が居たのはなぜか?ラストシーンのビルの意味はいったい何なのか?について詳しく調べました。知られていなかった火垂るの墓の真相を究明する事でまた涙する事でしょう。

火垂るの墓のラストシーン・最後が変わった?ビルの意味や節子が居たのはなぜ?のイメージ

目次

  1. 火垂るの墓のラストシーンが変わった?最後やビルの意味について考察!
  2. 火垂るの墓のあらすじをネタバレ!
  3. テレビ版では火垂るの墓のラストシーンがカットされている?
  4. 多くの人が火垂るの墓のラストシーンだと勘違いしている場面を紹介!
  5. 火垂るの墓の本当のラストシーン・最後とは?
  6. 火垂るの墓のラストシーンの意味を考察!
  7. 火垂るの墓の清太の死因・最後とは?
  8. 火垂るの墓のラストシーンと最後まとめ!

火垂るの墓のラストシーンが変わった?最後やビルの意味について考察!

毎年の夏の恒例でもありロードショーで誰もが一度は観た事がある火垂るの墓ですが、ラストシーンが変わったと囁かれて話題となっています。この話題はラストシーンで清太が神戸の三ノ宮駅で力尽きてしまうシーンがカットされているのではないか?といったものです。ですが、実はこのシーンはカットされている訳ではなく、火垂るの墓のオープニングのシーンなのです。

このシーンを最後のシーンと誤解している方が非常に多くこのような話題になったのではないでしょうか。そして、最後のビルのシーンについても数多くの方が不思議に思われたのではないでしょうか?この最後のビルについて考察していきたいと思います。

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火垂るの墓のあらすじをネタバレ!

火垂るの墓は野坂昭如さんが1967年10月に執筆された作品です。そして1988年4月16日に映画火垂るの墓を高畑勲監督により公開されています。ここではネタバレとなりますがあらすじを紹介していきます。

神戸市三ノ宮駅

冒頭「昭和29年9月21日夜、僕は死んだ」というセリフと共に主人公の清太14歳が神戸市三ノ宮駅の柱で力尽き最後を迎えるシーンから物語は始まります。力尽きた清太の服からドロップ缶が落ち、駅員がゴミとして投げ捨てます。その時ドロップ缶からこぼれ落ちた小さな骨が蛍となります。そして清太と4歳の妹、節子と一緒に走馬燈のように過去を振り返っていきます。

神戸の空襲

終戦直前の神戸で清太は心臓を患う母と4歳の妹、節子と暮らしていた。父は海軍の上層部であり既に出征して家にはいなかった。昭和20年6月、清太と清太の母、節子の暮らす神戸が空襲を受けます。清太は母を先に避難させ家の貴重品をまとめてから節子をおぶい逃げようとします。想像以上の空襲で逃げ場を一瞬失うが難をのがれ母のいる避難所の学校へと急ぐのでした。

母の死

小学校は病院代わりにされています。その小学校で男性に案内された部屋で上半身を包帯でぐるぐる巻きにされた母と対面します。清太は余りに急な出来事にその現実から逃げてしまいます。しばらくした後、清太は再び母がいる小学校に戻ります。

しかし、既に母は息絶えていました。その後、母はグラウンドに急遽作られたであろう大きな穴に放り込まれ焼かれてしまうのです。その大きな穴には母だけではなく、たくさんの人が犠牲になっていました。

親戚宅

家も母も失った清太と節子が頼ったのは西宮の親戚宅でした。清太は焼けてしまった自分の家の庭に蓄えていた食料品の入った甕を掘り返しリヤカーに積んで親戚宅へ持ち帰ります。親戚宅のおばさんは清太と節子を迎えてくれましたが、次第におばさんは学校へも行かず防火活動にも参加せず当時タブー視されていたピアノを弾くなどする清太と節子に不満をぶつけるようになります。

そんなある日おばさんが母の形見である着物を売ってお米にしようと言いだします。必死で抵抗する幼い妹節子でしたがお米に変えられてしまいます。母の形見の着物で買えたお米でしたが、自分の子供達ばかりに食べさせる意地の悪いおばさん、2人に対する厳しい言葉、次第に耐えられなくなっていく清太の姿がありました。

防空壕

銀行に母が残してくれたお金7000円を手に清太と節子は自炊用具一式を買いそろえ、親戚のおばさん達とは別々に食事をする事にします。それを見たおばさんは清太と節子に対する厳しい言葉が日増しに増えていき我慢の限界を迎えた清太は節子を連れて親戚宅を離れ防空壕に住み始めます。

リヤカーを引いて池の横にある防空壕に住み始めた節子と清太。初めは自由な生活を手にしたかのようだったが厳しい現実に清太と節子は直面することになります。まだ中学生という事もあり、生活していくのには余りにも幼すぎたのです。やがて食料は底をつき食べ物らしい食べ物もなく、防空壕の周辺で取れるタニシやカエルなどを口にしていたのです。

ほかの食料品が手に入るわけもなく、電気もない薄暗い防空壕の中で唯一の光である蛍を集めて蚊帳の中で蛍を放つ清太の姿があった。蚊帳の中を飛び交う蛍の光をみて嬉しそうにはしゃぐ幼い妹、節子。翌日、綺麗に飛び交っていた蛍が死んでいるのみて火垂るの墓を作ります。その時、節子はお母さんもお墓に入っていると言うのでした。母の死を秘密にしていた清太でしたが、親戚のおばさんが母の死を節子に話してしまっていたのです。

敗戦

防空壕での生活で食料に困るようになった清太は空襲で無人となった家を狙い火事場泥棒をするようになります。農家の野菜を盗んだ時は農家のおじさんに見つかり派出所に突きだされ幼い妹節子を見て号泣するシーンは印象的だと話題になりました。皆生きるのに必死だったのです。

そんなある日、川辺で倒れている節子を発見し清太は病院に連れていきます。診断の結果は「滋養を付けるものを食べさせて下さい。」と言った事でしたが、清太が滋養を付けさせる物なんて何処にもないと言うシーンは戦時中ならではのシーンだと言われています。銀行の長い行列に並び貯金を下ろし節子の為に食糧を調達しようしている最中に日本が降伏して戦争が終わった事を知ります。

清太は日本が敗戦した事実を受け止める事が出来ず、父が所属していたかつての大艦隊である連合艦隊はどうなったんですかと詰め寄ります。しかし連合艦隊も壊滅したと聞かされた清太は頼りにしていた父も失い大きなショックを受けます。

節子の最後

食糧も調達でき節子に食べ物を食べさせようとするシーンでは衰弱した節子がおはじきをなめていたり泥のお団子を作っていたりと戦争の悲惨さを描写しています。そんな節子に食事を与えますが既に手遅れの状態でした。節子は終戦から七日後の8月22日に短い生涯を終えます。

清太の最後

清太は防空壕を出ます。身寄りのない清太は神戸市三ノ宮駅で寝起きする戦災孤児の1人として最後を迎えます。無縁仏として納骨堂に納められます。
そして物語の冒頭1945年「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と鉄道構内で霊的になった清太は節子と再会し自分たちが生きていた頃を回想します。そして現代の高層ビルが立ち並ぶのを見つめ続けるシーンで終わります。

テレビ版では火垂るの墓のラストシーンがカットされている?

毎年8月のロードショーで放映されている「火垂るの墓」ですが、ラストシーンがカットされていると囁かれています。昨今のテレビ事情なのか、放送時間の関係上なのかは不明ですが最後のシーンがカットされたと思われる方が多くなるのも納得出来ます。しかし、本当にラストシーンはカットされているのかというとラストシーンはカットされていないのが本当のところのようです。
 

テレビ版カットシーン

火垂るの墓のラストのシーンがカットされていると噂されていますが、どのシーンがカットされているかというと、映画の火垂るの墓のラストのシーンは清太が現代の神戸市三ノ宮のビルを眺めて終わるのです。この清太が現代の神戸市三ノ宮のビルを眺めるラストのシーンがテレビでは度々カットされているというのです。

このビルが立ち並ぶ神戸市三ノ宮を眺めているシーンはカットされているのか?テレビの放送時間の中での問題があったのでしょうか?火垂るの墓のラストは謎が多いとの声も多数聞かれます。だからこそ印象に残りカットされていたかのように思えたのではないでしょうか。

多くの人が火垂るの墓のラストシーンだと勘違いしている場面を紹介!

ラストシーンがカットされたと思っている方の多くが、勘違いによるものと思われます。実は「火垂るの墓」のオープニングの部分をラストシーンと勘違いしたのです。オープニングの冒頭で「昭和29年9月21日夜、僕は死んだ」の清太のナレーションと共に兵庫県神戸市三ノ宮駅の柱で清太が力尽きるシーンから物語は始まるのです。このシーンを最後のシーンと勘違いされたと思われます。

勘違いしているシーン

ここで多くの人が勘違いしている火垂るの墓のラストシーンですが、オープニングです。その正しい火垂るの墓のオープニングシーンを紹介します。「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」というセリフと共に主人公の清太14歳が神戸市三ノ宮駅の柱で力尽きるシーンから物語は始まります。

力尽きた清太が持っていたドロップ缶が落ちるのを駅員が見つけて「なんやこれ?」「ほっとけほっとけ、捨てたらええねん」と言って駅員がドロップ缶をゴミだと思い草むらに投げ捨ててしまいます。その時、草むらに落ちたドロップ缶から小さな節子の遺骨がこぼれ落ち2人の魂が物語を回想するシーンで始まります。

火垂るの墓の本当のラストシーン・最後とは?

火垂るの墓の本当のラストシーンと最後とは?についてですが、幼い妹、節子の火葬から最後のシーンでビルが突然登場するカットのシーンや清太と節子が再開するシーンなど謎が多いシーンを紹介していきたいと思います。

節子の火葬

節子は終戦の7日後、8月22日に息を引き取り短い生涯を終えます。兄の清太は節子の遺体を山の中で火葬し、節子の遺骨を節子が生前嬉しそうになめていたドロップ缶の中に入れます。翌朝、清太は山をおりていきます。ここのシーンで「そのまま壕には帰らなかった」と言っているので、節子と共に行先もなくどこかを彷徨い歩き続けた事でしょう。

清太と節子が再会

清太と節子が再開するシーンがあります。このシーンは「火垂るの墓」冒頭のシーンで出てきた駅員が力尽きた清太のポケットから落ちたドロップ缶を放り投げた時にドロップの缶から節子の遺骨が出てきて蛍が浮かびあがった後に清太と節子が再開するカットに繋がります。
 

赤くなっているのは幽霊になっており阿修羅のように演出された為です。冒頭に出てくる清太と節子は幽霊のイメージです。節子が神戸市三ノ宮駅構内で力尽きた清太に駆け寄ろうとしますがもう1人の赤くなった清太が制止するシーンは「自分も節子と同じで、ここにいるから心配しなくていい」という意味です。電車に乗り「過去を思い出す」シーンでも幽霊になった清太と節子が喋るシーンは冒頭とラスト意外にはないのです。

蛍となり飛び交う姿は幻想的で生前を忘れさせるようです。無邪気な幼い妹節子が清太を待ってたかのように走り寄る姿が印象的だと話題になりました。兄妹の絆の深さを改めて知るこのシーンは火垂るの墓ならではの表現だと言われています。

突然ビルが登場

「火垂るの墓」のラストのシーンでは突然現代のビルが登場します。清太と節子がベンチに座り幼い妹節子に優しく微笑みながら「もう遅いから休み」と節子に語り掛けます。そして清太は小高い丘の上から突然現れた現在の高層ビル群を寂しそうな目で眺めているカットでエンドロールが流れラストシーンとなります。

火垂るの墓のラストシーンの意味を考察!

ここでは火垂るの墓のラストシーンの意味ですが、最後に死んだはずの節子がいたのは何故か?そして、突然、現れた現在のビルの意味とは?について考察していきたいと思います。

最後に死んだはずの節子がいたのはなぜ?

最後に死んだはずの節子がいたのは、作品の冒頭であるオープニングで昭和20年9月21日夜、僕は死んだと清太自身が語っており、清太も幼い妹節子同様に死んでしまっているからなのです。幽霊となったイメージが赤く描かれています。そして幽霊となり過去の自分達を見つめているのです。最後に節子がいたのも納得がいくというファンもいるようです。

節子の死の真実

火垂るの墓の節子の最後は栄養失調により亡くなった考えるのが妥当ですが、はたして本当にそうなのでしょうか?そして壕に行かず親戚のおばさん宅にいれば最悪の結果は免れたのでしょうか?答えは「NO」です。
 

実は節子は栄養失調になる前に既に何らかの有害物質が混じった雨を目から取り込んでしまったのが原因で何らかの病気になっていたと考えられてます。実際に作品の中でも左目の痛みを訴えているカットがあります。

節子の声優

火垂るの墓で節子の声が妙にリアルな子供の声と思ったことはありませんか?実は節子の声優は当時5歳11ヵ月の関西出身の子役である白石綾乃さんを起用していました。本物の子供の声優を使う事により作品の中の節子がよりリアルな節子になり火垂るの墓の節子として定着していきました。

地縛霊で無限ループ

火垂るの墓の最後のシーンでドロップ缶からこぼれ落ちた小さな遺骨、節子の遺骨と神戸市三ノ宮駅で力尽き息を引き取った清太、2人は小さな蛍となりお互いを確かめ合うように静かに舞い赤く発光する清太と節子が再開するカットに移ります。

そして走馬燈のように回想シーンが続きます。このシーンは既にこの世の者ではなくなった清太と節子が永遠に見続けている悪夢なのです。故に火垂るの墓が怖いと恐れられているのは清太と節子が成仏できずに地縛霊となり無限にこの回想シーンをループしているからなのです。

社会からの孤立

火垂るの墓のラストにはもう一つの意味があると言われています。それは現在の日本の社会にも通じるものがあると言われています。それが社会からの孤立です。ジブリ作品の監督である宮崎駿はこの火垂るの墓を観て「海軍のエリートだった父を持つ清太と節子が、あんな惨めな運命のはずがない。国から補償金や保護を受けられるし、最悪の事態は避けられたはずだった。」と意見を述べています。
 

確かに裕福な家庭環境であった清太と節子が惨めな最後は考えにくいかもしれません。しかし、清太と節子は親戚のおばさん宅を離れます。幼い妹節子を連れて自分勝手な行動をとるのです。それは今の日本の若者達にも通じるものがあり、1人で生きていくことは社会からの孤立を意味し清太のように最後は力尽きてしまうといった事を教えようとしているのかも知れません。

放送禁止になっていた?

近年、火垂るの墓の放送が激減してました。これは作品の中で節子がドロップを食べるシーンやドロップ缶が映るカットが多くあります。このドロップ、サクマドロップが原因のようです。ドロップは「佐久間製菓」という会社が戦時中に創業された会社です。

実は佐久間製菓は子会社とトラブルが起こり裁判沙汰になって「サクマドロップス」と「サクマ四季ドロップス」と名称を分けることになったのです。この佐久間製菓のトラブルにより商標権の関係で放送禁止になっていたのではないかと噂されていました。

反戦映画ではない?

火垂るの墓は反戦映画と思われがちですが実は反戦映画ではありません。これは監督である高畑勲が「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べています。清太と節子が社会から孤立しながらも家庭生活を築き上げる事には成功しますが、周囲の人々との共生を拒絶し社会生活に失敗するのは現代を生きる人々に通じる物があると解説しています。

そして「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。

我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べています。

原作との違い

火垂るの墓の原作者は野坂昭如さんです。原作と本作品であるアニメ映画ではどのようなカットが違うのでしょうか?実際のところですが、ほぼ忠実に再現されています。親戚のおばさんがアニメ版よりも原作の方がキツイ言い方であったりします。節子と清太の事を疫病神と呼んだり横穴に住んどったらええわなどときつく当たります。

各国の反応は?

この火垂るの墓は世界各国で上映されています。日本だけでなく世界各国で反響がありました。アメリカなど欧米諸国の反応はハッピーエンドではなく心に残る映画といった声。暴力描写がない反戦映画としても評価が高いです。いずれも共通するのは号泣し戦争の悲惨さを痛感するといった声でした。

韓国では多くのジブリ作品が公開されている中で本作品の火垂るの墓に至っては「日本は戦争加害国なのに、戦争被害者を装うための映画だ。」として、反日感情の高まりと共に2005年上映予定が無期限延期となり、2014年になり上映する事が出来ました。英国の映画雑誌「エンパイア」では「落ち込む映画ベスト10」の第6位に選ばれています。

火垂るの墓は実話?

火垂るの墓の原作者は野坂昭如さんですが、この物語は野坂昭如さんが実際に経験したお話が元になっているのですが、全てが実話では無いようです。節子のモデルは1歳4か月です。作品の中の清太は最後まで妹に優しい。「ぼくはあんなにやさしくはなかった」と書き、自分を哀れな戦災孤児に仕立て、妹思いの兄のように書いた嘘が、野坂にはのちのちまで重荷になる。」と語っています。

幼い妹の世話は父や母のように出来ない、妹に食べさせるつもりの食糧まで自分が食べてしまい生後1年半の妹を死なせてしまったと現在でも悔やんでいるのです。と語り本作品は懺悔の為でもあるというのです。

妹が自分の手の中で死んでいったこと、亡骸を自分で火葬したこと、その骨をドロップ缶に入れていたこと、この辺りのエピソードは全部実話です。過酷な状況の中でも蚊帳の中で幼い妹を喜ばせようと蛍を放つなど作品の中であったカットは事実でした。

貯水池は、現在の夙川公園北東部付近にある貯水池(ニテコ池)がモデルとなっています。清太と節子が暮らしていた防空壕はこのニテコ池に実在していた壕で、原作者である野坂昭如自身も空襲の度に何度か避難した経験があります。

原作者である野坂昭如さんが実際に疎開した先の叔母は映画のような態度ではありません。小説のような酷い扱いは受けておらず、家を出て防空壕での生活といった事は事実としてない。実際には戦中から戦後にかけて2人の妹を荼毘に付しています。

戦況が悪化し食糧事情が厳しくなるにつれ下の妹を疎ましく感じており結果として餓死しています。かつては自分もそうであった妹思いで良き兄を主人公にして下の妹へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めて火垂るの墓を執筆しました。「節子」という名前は亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の名前です。

そして原作者の野坂昭如さんは本作品公開前に発表した文章に「アニメ恐るべし」の中で「いわゆるアニメの手法で餓えた子供の表情を描き得るものかと、危惧していたのだが、これは全く無知のしるし、スケッチを見て、本当に驚いた。僕の舌ったらずな説明を、描き手、監督の想像力が正しく補って、ただ呆然とするばかりだった。」

自分が目をそむけつづけてきた過去と今は、少し正直にむきあっている。と記しています。原作者までの動かなかった心を動かす程の名作を作り上げ海外からも高い評価を受け日本が誇る不朽の名作となった火垂るの墓。惜しくも亡くなられた監督「高畑勲」の凄さが分かる一文といえます。

衝撃の過去「わが桎梏の碑」

原作者である野坂昭如さんが明かした衝撃の過去は「わが桎梏の碑」に綴られています。その一部を紹介していきます。この本の中では自分は清太ほど優しくはなかったと繰り返し書いています。敗戦の混乱の中で衰弱死していく自分の妹を横目に自分だけ食べて放置し、しまいには妹の太腿さえ食欲を感じた。

餓えた妹はよく夜泣きした。泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。妹に対する扱いは虐待に近かったとご本人も認めていました。このように本作品の清太とはかけ離れた衝撃の事実が語られています。

しかしながら、敗戦の混乱の中生きる為に必死である事に間違いはなく誰も責める事は出来ない。ただ野坂昭如自身は妹に対する贖罪の念が強く本作品の清太という人物を作り上げ良き兄として理想を描いているのです。

節子が駅でまっている?

火垂るの墓の節子が駅で待っていると話題になり今や都市伝説となりつつあります。これは同ジブリ作品である「千と千尋の神隠し」の中に登場していると言うのです。その噂のカットは「千と千尋の神隠し」後半に出てくる水上駅という駅です。

火垂るの墓のラストで節子は亡くなってしまいます。そして幽霊となってラストのシーンで清太と共に現在の日本のビルが立ち並ぶ様子を見ています。ですが、水上駅に立って誰かを待っているシルエットが本作品の節子に非常に類似しているのです。

ですから節子は誰も迎えが来ない水上駅でずっと清田や両親が迎えに来るのをずっと待っている。と都市伝説として噂されていました。しかし、本当は幽霊となってビル群を見つめ、そしてまた自分たちのいた時代を無限にループしているのです。

ビルの意味とは?

火垂るの墓の最後のシーンで登場するビル群は火垂るの墓が公開された1988年の神戸市三ノ宮の風景を描いています。このビル群を清太が見つめているのですが、清太はどんな思いで現在の神戸を見つめていたのでしょうか?

恐らくは食糧もなく栄養もとれずに幼くして死んでしまった節子を思っていたのでしょう。有り余る食糧、何処に行っても何でもそろう時代。しかしながら現在の日本では自らが死を選ぶ若者も多い。清太は生きたくても生きる事が出来なかった節子や両親、そして自分自身を思い、日々変化していく日本の姿をただ黙って見つめているのです。

火垂るの墓の清太の死因・最後とは?

火垂るの墓の清太の死因ですが、劇中最後のシーンの兵庫県神戸市三ノ宮駅で座り込み最後を迎えている事から、恐らくは栄養失調が一番の原因だと考えられます。この衰弱死の原因が食糧不足による餓えが直接的な原因だと推測されます。

清太の死は自殺だった?!

清太の死が実は自殺だったという説もあります。確かに母親を失い、可愛いく幼い妹節子までも失い、頼りにしていた父親も失っているので、生きる活力を見出す事が出来ず行きついた先が神戸市三ノ宮駅のホームです。節子の病気を治す為に盗みや火事場泥棒までしていたので1人でも生きていけたのではないかと推測されます。ですから清太は生きる活力がないままに自ら死を選んだとも考えらてれます。

鬱病になった?

清太の死の本当の理由としてあげられるのが「鬱病」説です。栄養失調で死を迎えたというのが1番信憑性も高いのですが、これまでの清太の行動からしても1人で生きていく事は出来たはずです。貯金も7000円近くあったということではまだ残っていたと考えて良いのですが、清太は使わずに力尽きています。

この状況からすると清太自身生きる事を諦めていたとも考えれると指摘する声もあります。多感な時期の14歳の少年には母親を亡くし最愛の幼い妹節子までも、そして頼りにしていた父親までも失い生きる活力を失い「鬱病」になったと推測されています。事実、倒れ込む清太に道行く人がおにぎりを差し出しているのですが手をつけていません。

清太の行動は身勝手?

火垂るの墓の舞台は太平洋戦争時です。当時の日本は軍国主義による教育を行い清太と同じ年頃の少年はお国の為に勤労する時代です。作品の中でも親戚のおばさんが「お国の為に働いてる人らの弁当と、1日中ブラブラしとるあんたらと、なんでおんなじや思うの」と言うセリフがあります。

このセリフは正に正論で清太の壕で生活するといった身勝手な行動は当時の日本の状況では非常に寛大であるといえます。非国民ということで当時は憲兵に捕まってもおかしくない時代です。その上、幼い妹節子までを連れていきました。

高畑勲監督はこの清太の行動をみて1988年当時の日本の青少年に通じるところがあると考えていたのです。そして高畑勲監督は「現代ではデジタル機器が発達し、わずらわしい社会生活から離れ、ある程度は自分の世界にこもることも可能になった。そのような時代であればこそ、清太の心情がわかりやすいのではないか」と述べています。

この清太の行動は現在の日本の社会問題にもなっているひきこもりの問題やニートの問題に繋がっているのです。清太の周りには優しい大人たちも多くいて、お向かいのお姉さんは「何か出来る事あったらいうてちょうだい。うちら2階の教室やねん、みんな居てるから来えへん?」など声をかけてくれていました。

盗みを働いた時の駐在さんなどに相談するなどいくらでも助けはあったであろうと思われますが、清太は大人たちの優しさに向き合い頼ろうとはしなかったのです。清太自身で社会からの繋がりを放棄しているのです。この身勝手な行動が清太自身を苦しめる事になるのです。

火垂るの墓のラストシーンと最後まとめ!

いかかでしたか?火垂るの墓のラストシーンには様々な考察が出来ます。特にラストで突然現れるビルには驚きと戸惑い、そして、なぜ昭和20年代に高層ビルがあらわれるのか?謎に思って最後まで観ていた方も多いはずです。今回はそんな突然現れたビルの意味の考察もしていきその時代に存在していた節子と清太の人生をも考察していきました。

この火垂るの墓を考察する事で現在の日本の青少年の行動と類似している事や、噂や都市伝説として広まっている話などを掘り下げてじっくりと考察すると新たな発見もあると言われています。反戦アニメ映画ではないと繰り返し述べていますが、反戦の意味もあると考察も出来ると指摘する声も。

最後にビルを見つめていた清太ですが、過去の自分達を見つめ無限にループする中で何を訴えて何を思っているかは視聴者1人1人が考える事を狙って作成しているようにも見えるかもしれません。火垂るの墓は清太と節子が必死で生き抜こうとした時代に現在の私達に対する生きるという意味を問いかけているようにも見え、引きこもりなど心の闇に対して現在の日本の闇を警鐘を鳴らしてるのではないでしょうか?

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