2018年09月03日公開
2018年09月03日更新
アンパンマンの作者・絵本作家のやなせたかしの名言まとめ!今後はどうなる?
アンパンマンは絵本作家で作者のやなせたかしさんが描くシリーズ作品となっています。また、絵本だけでなく人気アニメ「それいけ!アンパンマン」や映画、漫画、ゲームソフトやおもちゃ、グッズなど様々な派生作品が登場するほどの人気で国民で知らない人はいないのではないかという程に。更にキャラクター数ではなんとギネス世界記録に登録されるほど多くなんと1768体もいる超大作です。今回はそんなアンパンマンの作者、やなせたかしさんの名言や今後どうなっていくのかをまとめて記事にしていきます!
目次
アンパンマンの作者やなせたかしの名言まとめ!アンパンマンの今後も調査!
今回はアンパンマンとその作者やなせたかしさんについてのまとめです!アンパンマンは1973年に「キンダーおはなしえほん」にて絵本から始まり1988年にアニメとして「それいけ!アンパンマン」が始まり今や知らない人がいないほどの作品となっています。
そんな作品アンパンマンを作り出した作者のやなせたかしさんですが、2013年に亡くなってしまいました。そんなやなせたかしさんの名言やアンパンマンの作者が亡くなってしまった今と今後のアンパンマンは一体どうなってしまうのか?そんなことも深く掘り下げてまとめの記事にしていきます!
アンパンマンとは?
アンパンマンは1973年に作者やなせたかしさんが書き、フレーベル館の月刊絵本「キンダーおはなしえほん」に初掲載されそこからずっと支持されてきている人気作品となっています。また、アニメも1988年に日本テレビ系列で放映されてからずっと放映され続けており、今や知らない人がいないほどの超国民的アニメとなっています。
アンパンマンとはパン作りの名人「ジャムおじさん」が心を持ったあんぱんを作りたいと思っていたのですがうまくいかない日が続いていたところある夜「いのちの星」がパン工場の焼き釜に流れ落ちその「いのちの星」が丁度焼いていたあんぱんに宿りアンパンマンが誕生しました。
アンパンマンは困っている人のもとに飛んでいき、お腹を空かせている人には自分の顔を食べさせてくれる正義のヒーロですがそんなアンパンマンをやっつけるために誕生したキャラクターが「ばいきん星」からやってきた「ばいきんまん」という設定のキャラクターです。
アンパンマンの作者やなせたかしさんとは?
今回のまとめのタイトルともなったアンパンマンの作者やなせたかしさんは本名「柳瀬嵩」1919年の2月6日に東京府北豊島郡滝野川町で生まれ、その後小学校進学前に高知県香美郡在所村へと移動。そのためやなせたかしさんの出身地は高知県とされています。
また、アンパンマンの作者と知られているやなせたかしさんですが、有限会社やなせスタジオの社長。さらに社団法人日本漫画家協会代表理事会長も歴任されています。絵本作家、詩人として活躍される前の下積み時代ではなんと頼まれた仕事はなんでもこなしたい!と言い舞台美術家、演出者、司会者、その他もろもろなんでもやっていました。
やなせたかしさんの実家は伊勢平氏の末裔でなんと300年も続く旧家の出身です。大正13年のやなせたかしさんが5歳の時に父親が32歳で亡くなり、その際家族で高知県に移動しました。そんな移住先の高知県をやなせたかしさんは「ぼくの故郷の町」と呼んでいます。
やなせたかしさんが絵に興味を持ち始めたのは中学生の頃からで高校進学と同時に東京工芸学校図案化へと進学し、学生時代はカフェや映画鑑賞を楽しむ「銀座学校」へと通っていました。ちなみに少年時代の愛読書は「少年倶楽部」だったそうです。
高校を1939年に卒業後田辺製薬の宣伝部へ就職。しかし昭和16年(1941年)に徴兵され日中戦争へ出征するも暗号班へ所属。部隊では暗号班の仕事もこなしつつ紙芝居をつくり地元民へ向けて演じた事もあったといいます。また、従軍中は戦闘の無い地域にいたこともあり一度も敵に向けて銃を撃ったことは無いそうです。
やなせたかしさんは終戦後しばらくはクズ拾いの会社で働いていたのですが絵への興味が再発し昭和21年(1946年)に高知新聞の記者に就職。「月刊高知」編集部にて文章、漫画、表紙絵など手がけていましたが後の夫人となる小松暢さんと出会い、昭和22年(1947年)28歳のときに小松暢さんが上京すると知り自らも上京し三越宣伝部のグラフィックデザイナーとなりました。
三越在職中に「独立漫画派」という漫画集団に所属するも昭和28年(1953年)には漫画家としての収入が三越の収入を3倍以上上回ったところで三越を退職、専業漫画家の道へと進みました。その頃は舞台装置の製作や放送作家、作詞家としての仕事の方が多かっといいます。当時の代表作はサッポロビールのキャラクターとなった4コマ漫画「ビールの王さま」でした。
昭和35年(1960年)にミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の美術を担当、その時に知り合ったいずみたくさんと組み、翌年に国民唄である「手のひらを太陽に」をやなせたかしさんが作詞されました。その後飛んで昭和44年(1969年)に雑誌「PHP」10月号で大人版の「アンパンマン」が誕生。しかしこのころは頭部は普通の人間で今のアンパンマンの核心でもあるアンパンを届ける、というところは変わっていません。
昭和48年(1973年)54歳の時に雑誌「詩とメルヘン」をやなせたかしさんは立ち上げます。その後、同年昭和48年に大人向け「アンパンマン」を子供向けへと昇華した絵本「あんぱんまん」を出版しました。その後1988年には「それいけ!アンパンマン」としてアニメ化され爆発的な人気を出します。
そんなやなせたかしさんですが60歳の頃には「腎臓結石」70代では「白内障、心臓病」80代では「膵臓炎、ヘルニアその他もろもろ」90代では更に多くの…と病歴を重ねていたやなせたかしさんですが2013年8月についに体調を崩し入院してしまい。2013年10月13日午前3時8分に心不全のため様々な名言と作品を残し享年94歳で死去されました。
アンパンマンの作者やなせたかしの名言10選
今は亡きアンパンマンの作者やなせたかしさんですが、生前様々な名言を残していかれました。そんなやなせたかしさんの今後後世に残しておきたい名言、人生を楽しく生きるための名言、今後みなさんの力になってくれるであろう名言をまとめました。
名言その1・おもしろくない。そんなの損だ。とにかく面白い事を探す。
やなせたかしさんは自分の事を重病人と呼ぶほど病気だらけで今後自分がいつ亡くなってもおかしくないほどの体でした。今後のことは分からないけれどもそんな今の自分を楽しもう。と自分に言い聞かせていました。ですがこれはやなせたかしさんの性格をそのまま出して無理にそのように考えていたのではなく自然に考えられていました。
名言その2・やりたくないけどやらなければいけないことは趣味にしてしまえばいい
今のご時世、やらなければいけないけれどやりたくないことばかりです。仕事に掃除などの日常生活での家事など、今後大人になっていくにつれてどんどんとやりたくないのにやらなければいけないことは増えていってしまいます。ですがどちらにせよやらなければいけないのであれば楽しくやりたい、楽しむべきだという思いがやなせたかしさんのこの言葉には詰まっています。
名言その3・自分に合う方法は自分で見つけなくてはダメ
アンパンマンの作者として有名になったやなせたかしさん。まさに自分に合うものを見つけた方だと言えます。そんなやなせたかしさんのこの言葉、説得力しかありません。自分に合うものを他人に決めてもらうなんていうことは出来る筈もないと考えていました。なにより自分に合うを自分で見つけたら今後の自信にもなるでしょう。
名言その4・個性を認めようとしない「らしく」という言葉は嫌いだ
「お姉さんらしく」、「お母さんらしく」など他人から見られることばかり考えそれを意識してしまうということはそれこそ自分の個性を無くしてしまう言葉なんだとやなせたかしさんは考えています。他人から見られる事ばかり意識せず、自分を貫くことこそが今後個性を活かしていくことなんでしょう。
名言その5・恥をかくからやらないではなく恥をかいてもやってみる方が面白い
やなせたかしさんは様々な事に挑戦されてきました。そんなやなせたかしさんがもし失敗を恐れて恥をかくのを怖がっていたらアンパンマンという作品も生まれる事はなく、今後やなせたかしさんの名前が語り継がれることもありませんでした。自分の気持ちに素直になり、勇気をもって行動するのが楽しく生きるコツなんでしょう。
名言その6・人生で大切にしてきたのは「う・ど・ん・こ」
うどん粉?となりますが違います「う」は「運」・「どん」は「鈍」・「こ」は「根気」です。運を味方につけ、あきらめずに鈍重にやり続け、途中で投げ出すこともなく、根気よくやり続けること。この言葉を味方にやなせたかしさんは頑張ってきました。今後私たちにも必要な言葉です。
名言その7・笑う筋肉が動くと笑う心も動くのです
やなせたかしさんは毎朝起きたときに鏡の前に立ち、笑顔を作り「今日も笑顔で過ごそう!」と発破をかけていました。嘘の笑顔でも怒ってる時でも顔だけでも笑顔にすれば心も自然に笑顔になっていくとやなせたかしさんは言っています。悲しいとき、怒ってる時にこそ笑顔でいることこそが幸せに生きる秘訣でした。
名言その8・どうればいい仕事が出来るんでしょうか?という問いに対する答え
ある日、やなせたかしさんに一つの質問が来ました。その内容は「どうすればよい仕事ができるのでしょうか?」という問い、その問いに対しやなせたかしさんは「なによりも懸命に生きる事ですよ」と一言だけおっしゃいました。その言葉にはやなせたかしさんの人生が詰まっているように感じられます。
名言その9・相手と自分の実力の見分け方
やなせたかしさんは相手の実力を見抜く際に直観を大事にされていました。その直感とは、相手と比べて「大体同じくらいの実力だ」と思う時は相手の方が実力が少し上。「相手の方が少し上だな」と感じるときは客観的に見れば同じくらいに実力。「相手の方が上だな」と感じたときは相手のほうが遥かに上だ。とそう思えば間違いないと言いました。
まだ続きがあるのですが、その後やなせたかしさんはある程度自分の才能を磨き続け、ある分野に、ある程度通用するようになるとこのように直観で相手と自分の力量の差がわかってくるといいました。しかし自分の方が上だと思ったことはないのだということです。
名言その10・見る前に跳べ!というのが僕の主義です。
やなせたかしさんのこの言葉「見る前に跳べ!それが私の主義です」このように言葉にすると簡単なことですがいざやるとなるととても難しい話です。今ではもう安全な道を、安心な道をと周りからでも自分からでも絶対に大丈夫だとわかってから動くことしか出来なくなってしまってきている世の中です。
ですが、そんな世の中に活を入れたのがやなせたかしさんのこの言葉です。やなせたかしさんは成功しているからそういう事が言えるんだと思う方もいるかもしれませんが、やなせたかしさんは様々な人生経験をし様々な転落もしています。しかし今成功し、今後の歴史に名前が刻まれたのはこの主義があったからなのかもしれません。
アンパンマンの作者やなせたかしさんが死亡!今後はどうなる?
アンパンマンの作者やなせたかしさんが死去
享年94歳で亡くなってしまったアンパンマンの作者やなせたかしさん。享年2013年10月13日、心不全のため東京の順天堂大学医学部付属順天堂医院で亡くなりました。やなせたかしさんの死去の報せは翌々日の15日に公表され多くの人々を悲しませました。なお出身地の高知新聞では号外がwebで公開されました。
なお、テレビのニュースでは2013年の6月に「アンパンマン」のアニメ制作スタッフに「来年までに俺死ぬんだよね。分かるんだよね」、「まだ死にたくない、ようやくアニメが面白い所に来ているのに俺はなんで死ななくちゃいけないんだよ」と言葉をもらしていました。晩年にようやく作品がヒットしたもののやなせたかしさんはアンパンマン自体や漫画作品への意欲は衰えていなかったことがわかります。
やなせたかしさんはアンパンマンを通して「勇気」、「優しさ」、「分け与える心」を伝えてくれました。とてもシンプルですがとても大切な事を教えてくださいました。だからこそやなせたかしさんの死去というニュースに日本だけでなく世界中の子供たちが衝撃を受けたんでしょう。しかしやなせたかしさんの教えは今後も私たちの心に残り、響き続けていきます。
アンパンマンの製作スタッフがやなせたかしさんの遺志を受け継いでいく?
やなせたかしさんが亡くなったことを受け、亡くなった月の10月15日に都内で関係者で会見が開かれました。その際にはアンパンマンの今後は未定と語りテレビアニメの今後についてはまだ白紙ですと語りました。また89年から毎年公開している映画については生前やなせたかしさんと映画の新作の企画を詰めており、2014年に公開されました。
アンパンマンの作者であるやなせたかしさんが亡くなってもまだまだ続いているアニメアンパンマンですが、そこにはやなせたかしさんの遺志を受け継ぐスタッフたちの力があります。残されたスタッフ達は「愛と勇気を引き継ぎたい」とその想いを語っていました。25年携わっているスタッフと一丸となって愛と勇気を胸に前に進んでいきたいと語っています。
やなせたかしさんが亡くなってもこのようにやなせたかしさんの遺志を受け継いでいく人が多くおり、アンパンマンはこれからもずっと受け継がれ続け、後世に残っていく作品だということがわかりました。今後もやなせたかしさんの作品、アンパンマンだけでなく詩など様々な作品が受け継がれていくのでしょう。
アンパンマンの作者やなせたかしの名言まとめ!
今回はアンパンマンの作者やなせたかしさんの人生、それから名言とまとめさせて頂きましたがいかがでしたでしょうか?やなせたかしさんといえばアンパンマン!でしたが、やなせたかしさんはそれ以外にも様々なものを遺していってくれました。今後もやなせたかしさんが遺してくれたものを胸に秘めてアンパンマンをご覧ください。