かぐや姫の物語を徹底考察!罪と罰の内容や高畑勲が込めた想いとは?

2013年秋に公開されたスタジオジブリのアニメーション映画、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』について考察します。キャッチコピーは<姫の犯した罪と罰>。一瞬ドキリとするこの言葉は一体どういうことなのでしょうか。高畑勲監督がこの作品に込めた想いとは。原作は平安初期に成立したと考えられている『竹取物語』ですが、それを高畑勲監督が自分なりの解釈で映像化したこの『かぐや姫の物語』について、改めて考察してまいります。

かぐや姫の物語を徹底考察!罪と罰の内容や高畑勲が込めた想いとは?のイメージ

目次

  1. かぐや姫の物語について徹底考察!
  2. かぐや姫の物語とは?
  3. かぐや姫の物語のあらすじをネタバレ!
  4. かぐや姫の物語の罪と罰の内容を考察!
  5. かぐや姫の物語に高畑勲が込めた想いとは?
  6. かぐや姫の物語の罪と罰の内容や高畑勲が込めた想いの考察まとめ!

かぐや姫の物語について徹底考察!

ジブリアニメ―ション映画「かぐや姫の物語」とはどんな映画だったのでしょうか。原作「竹取物語」との違いやジブリ映画の中での位置づけは?そしてあらすじのネタバレから、「かぐや姫の物語」に込められた高畑勲監督の想いについてまで、深く掘り下げて考察していきます。

映画『かぐや姫の物語』公式サイト

かぐや姫の物語とは?

映画「かぐや姫の物語」は平安時代より語り継がれる「竹取物語」を原作とした、スタジオジブリ制作のアニメーション映画です。キャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」。監督は「火垂るの墓」や「平成狸合戦ぽんぽこ」で有名な高畑勲監督です。高畑勲監督による監督作品は1999年の「ホーホケキョ となりの山田くん」以来14年ぶりとなりました。

ちなみに「かぐや姫の物語」の劇中歌「わらべ唄」や「天女の歌」も高畑勲監督が作詞作曲をしています。

「かぐや姫の物語」は、アニメ映画としては異例ともいえる8年という長い期間をかけて制作され、その製作費はおよそ50億を超えると言われております。また「ホーホケキョ となりの山田くん」でも使用された『線』を生かした手書き風のスタイルが今回も取り入れられており、背景も含め一枚絵が動くような画面作りがなされています。「かぐや姫の物語」は高畑勲監督が本当にこだわってこだわりぬいた作品なのでしょう。

「かぐや姫の物語」の成績としては、全国456スクリーンで公開され、初日2日間で22万人を動員、興収2億8,000万円を記録、累計の興行収入は約25億円となりました。日本の他ではフランス、韓国、アメリカ等でも上映されています。特に北米での評価は非常に高く、多くの評論家が肯定的な意見を述べています。

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かぐや姫の物語のあらすじをネタバレ!

あらすじ その1:天からの授かりものの少女

「かぐや姫の物語」は誰もが知っているあのシーンから始まります。かぐや姫の物語のあらすじを、順番に紹介していきます。

山里に竹を取って暮らす翁(おきな)と媼(おうな)が住んでいました。ある日、翁が竹を取りに山へ行くと、途中光り輝くタケノコの中から手のひらサイズの小さな女の子の赤ちゃんを見つけます。翁と媼は「天からの授かりもの」として、その赤ちゃんを大事に育てていくことを決めます。

赤ちゃんはすくすくと育ち、半年あまりで少女へ成長します。映画オリジナルのキャラクターである少年捨丸(すてまる)を始めとする、近隣の子どもたちと大自然でのびのびと遊びながら、天真爛漫に育っていきました。

しかしそれに反して、翁は「天に、姫を立派に育てよと命じられている」「高貴の姫君に育て、立派な貴族に見初められるのが姫の幸せ」と、都に屋敷を買い、一流の教育を受けさせるのです。

あらすじ その2:高貴の姫君として

翁が宮中から招いた女官の相模が姫の教育を担当しますが、姫はふざけてばかりでまったくまじめに習おうとはしません。しかし翁たちの前では上手に「高貴の姫君」を演じますので、やがて成人になるにあたり「なよたけのかぐや姫」の名を与えられることになります。

成人を祝うお披露目の宴、成人の儀礼では三日三晩宴会が続き、その間姫はずっと、ひっそりと隔離された蚊帳の中で座らされています。そのような中、なかなか姿を見せない姫に対して客の一人が侮辱するような暴言を吐くのですが、それを聞いた際に何かが切れたのでしょう。姫は屋敷を飛び出してしまいます。

この「かぐや姫の物語」でも特に印象深いシーンで、画像のタッチなど今までとはがらりと雰囲気が変わります。町の中を物凄い形相で走り抜け、以前住んでいた山里まで駆けていきます。

美しい着物も脱ぎ捨てて肌着1枚でたどり着いた故郷ですが、そこにかつて一緒に遊んだ子どもたちの姿はなく、代わりに出会ったのはたまたま居合わせた炭焼きの男のみでした。そしてその後姫は雪の中で行き倒れてしまいます。

あらすじ その3:5人の公とかぐや姫

雪の上に倒れ伏したものの、気が付くと姫は元の着物を着て屋敷に戻っていました。それ以来、姫はふざけなくなり、行儀良くふるまうようになります。

そして次の春、姫のもとに5人の公が妻に迎えたいと現れます。そんな彼らに姫はそれぞれにありもしない珍しい宝物を持ってくるよう求め、結果彼らは屋敷から帰って行ってしまいます。

求婚してくるうるさい男たちがいなくなり、喜んで花見に出かけるかぐや姫たち。しかし周りの人との身分の差を感じる出来事に続き、盗みを働き暴力の制裁を受けるかつての幼馴染の姿を見てより一層悲しみを深めてしまいます。

あらすじ その4:天への帰還

一方、かぐや姫のうわさはついには御門(みかど)のもとまで届きます。大変興味を持った御門は姫を宮中に招こうとするも、姫は断ります。命に代えても出仕しないという姫に、御門は屋敷に忍び込み姫を抱きしめて連れて帰ろうとしてしまいます。

結局この御門のたくらみは失敗に終わるのですが、これをきっかけに姫は無くしていた記憶を取り戻します。そして翁と媼に、「自分は月から地上に降ろされた者で、御門が来た際に『この地にいたくない』と助けを求めてしまったため、今月の15日には月から迎えが来て帰らなければならなくなる」と衝撃の告白をするのです。

あのもう一度戻りたいという姫の言葉に、媼は他に知られないようにして故郷の山に向かわせます。そしてそこで、同じように成長した捨丸と再会、いっときだけ夢のような時間を過ごします。

8月15日満月の夜、とうとうその時がやってきます。姫を迎える天の人たちが雲に乗って、姫の前に現れたのです。月の人たちは不思議な力で姫の正気を失わせ、姫を強制的に雲に乗せようとしますが、姫はすんでのところで正気を取り戻します。そして翁と媼に泣きながら最後の別れを告げました。

そんな中、月の人の女官が姫に告げます。月に戻れば心が乱れることもなく地上の穢れも消える、と。それに対して姫は「地上は穢れてなどいない」と反論するもむなしく、天の羽衣を着せられてしまいます。それは着ると地上での記憶を一切失ってしまう魔法の羽衣だったのです。

羽衣を着せられた姫はそこですべての記憶を忘れてしまい、何事もなかったかのように無機質な顔で月の人の一行に加わり、そのまま月へを帰って行ってしまうのです。帰途のさなか、ふと何か気づいたように姫は地球を振り向きます。記憶がないはずにもかかわらず、その目には涙を浮かべていたのでした。

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かぐや姫の物語の罪と罰の内容を考察!

「かぐや姫の物語」の罪と罰について考察するうえで、まずは原作「竹取物語」との違いについて触れる必要があるでしょう。

「かぐや姫の物語」と原作「竹取物語」の違い

原作「竹取物語」については誰もが一度は話を聞いたことがあるでしょう。ただその物語は客観的起こったことのみが書かれており、登場人物一人ひとりの心情までは追っていないのです。それに対して、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」はあくまでも姫の主観で話を追っており、時には激しく、また時には静かに、姫の感情の起伏を丁寧に描いています。

また「かぐや姫の物語」のもう一つ原作との違いとして、オリジナルキャラクターの存在です。例えば、姫が幼少期に過ごした里山の捨丸は原作には登場しません。ですがこの存在は、まだ何にも縛られずに幸せに過ごしていた姫の幼少期の想いでを語る上でもっとも重要な要素の一つですし、月に帰る直前の姫の悲しみを理解するうえでは外せない人物です。

またその他に「かぐや姫の物語」のオリジナルキャラクターとして、翁が姫の教育係として宮中より呼び寄せた相模(さがみ)。そして姫の身の回りの世話をする次女見習いの女童(めのわらわ)がいます。

相模は姫に「女としての幸せはかくあるべき」と説きます。また5人の公たちから求婚される様を見て「なんと幸せなことか」といった旨のセリフを言います。「かぐや姫の物語」の時代の「女性の幸せ」に対する固定観念の象徴であるとともに、多様な生き方へのプレッシャーを表すキャラクターとなっています。

逆に女童は、例えば外に出られない姫のために桜の枝を折ってきたり、一緒に羽根つきをするなど、姫の童心を刺激し、一生懸命自分を抑え周囲の期待に応えようとする姫の心を揺さぶる役柄となっています(もちろん当人にはそんな意図は全くないのですが)。

では「かぐや姫の物語」が原作とかけ離れているのかというとそうではなく、それ以外の点においてはむしろ忠実に原作を再現しています。つまり原作の「竹取物語」のかぐや姫の人生を、あくまでも姫の視点で追っていき、その過程に起こりうる様々なドラマを高畑勲監督の解釈でもって綴っているのが「かぐや姫の物語」なのです。

かぐや姫が語る「罪と罰」

原作に忠実と述べましたが、姫の「罪と罰」については、原作でも「かぐや姫の物語」における姫のセリフでもしっかりと明言されております。あらすじでも述べましたが、姫はもともと月の人です。そこには一度地上に降り立った人がおり、地上の唄を歌って涙するのを見て、地上での生き方に興味を持ってしまったというのです。

そして「かぐや姫の物語」の月の世界では、その興味を持つこと自体が「罪」、そして地球に降ろされたということが「罰」であるのです。

原作当時の時代背景を考察

しかし地上に興味を持つことがそこまで罪なのでしょうか。これだけでは「罪と罰」を考える上では材料が足りません。この「かぐや姫の物語」で語られる「罪と罰」を考える上では、ただ「かぐや姫の物語」のあらすじを追うだけではなく、原作「竹取物語」の作られた時代背景までも考慮して考察する必要があります。

日本は古くから仏教の影響を強く受けていました。仏教には、人間を含めすべての生き物はこの苦しみにまみれた世界の間で生まれ変わりを繰り返しており(輪廻)、最終的にその苦しみの世界を抜け出し天に生まれること(涅槃)が最高の幸せという考えがあります。確かに「かぐや姫の物語」の姫を迎えに来た人たちを見てみると、一目で仏教の装いが確認できます。

また、ここで「かぐや姫の物語」の劇中歌「わらべ唄」の歌詞を見ていただきます。「まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ」「鳥 虫 けもの 草 木 花」「咲いて 実って 散ったとて」「生まれて 育って 死んだとて」「せんぐり いのちが よみがえる」とあります。これはまさしく仏教の輪廻を表しているのでは、と言われています。

また「かぐや姫の物語」は平安時代を舞台としていますが、当時の時代を振り返ってみますと、戦争が頻繁にあり、異常気象が起こり、度々飢饉に襲われ、また常に疫病の危機と隣り合わせの世界でした。それは、まさしく苦しみの世界であったともいえるでしょう。

姫を迎え来た人たちは、単に月の世界に住む人という解釈もあります。ですがそれ以上に、彼らは地上の苦しみから抜け出し、涅槃に到達した至高の存在であるのではないか、ということです。そうだとすると、月の人たちからすれば地上はまさしく苦しみにまみれた、穢れた世界であるのです。

月の人における罪と罰

あらすじでも述べたように、姫は地上に興味を持ってしまいました。月の人の考え方においては、地上は人間的な感情や欲望があり、様々な彩に満ちていること自体が罪で、穢れています。それなのに、姫は単に興味の枠を超えて、憧れに近い感情すら抱いていたようです。そしてそれは天の人たちからすれば、ひどい裏切りだと考えてもなんら不思議ではありません。

そしてまたその罰についても、「そのような穢れた、苦しみの世界に一人で降り立つこと」となります。そしてその世界、つまり地上が苦しみにあふれていて、危険で、穢れていることを理解したときに初めて許し、迎えに来ようという事なのです。

かぐや姫の物語に高畑勲が込めた想いとは?

原作「竹取物語」と比較し、この「かぐや姫の物語」が姫の主観で語られているということは既にご紹介しましたが、それによって、この作品にどんなメッセージが吹き込まれたのか、紹介してまいります。

一人の女性としてのかぐや姫の物語

原作の「竹取物語」を読むと、求婚者に無理難題をふっかけ手玉に取る、一見意地悪な女性として書かれています。しかし「かぐや姫の物語」にて姫の心情がやそこに至るまでの心の葛藤が描かれることで、印象は180°変わります。無理難題を吹っ掛けることで、顔を見たこともない男との、したくもない結婚から逃れようとしていることが分かります。

「かぐや姫の物語」では、姫がどうしてこのような選択をしたのか、なぜこのような行動をしたのかを自分の解釈で練り上げて、一つの「かぐや姫」という人物像を作り上げたのです。それはたんなる昔話の域を超えた、一人の女性としてのかぐや姫の物語を紡いで見せたのです。

かぐや姫の葛藤

さてこの「かぐや姫の物語」で語られる姫ですが、あらすじにもあるように、翁に発見されてから都会に出るまでの間、里山を駆け、同年代の子どもと遊び、またそのうちの一人に淡い恋心を抱き、とても幸せそうでした。もし仮にですが、このまま里山で自由に暮らし、幼いころ一時でも心を通わせていた捨丸と一緒になっていたとしたら、もっと違った生き方があったかもしれません。

しかしその後、現実では高貴な教育を受け、自由に遊ぶことも出歩くこともできない不自由な、自分を押し殺す生き方を強要されてしまいます。彼女はその生き方しか選ぶことができませんでした。それは、男の人にとっての「性の対象」としての生き方です。「かぐや姫の物語」では全体として、性に対する後ろめたさや嫌悪感が表現されています。

あらすじでは触れていませんでしたが、例えば姫が初潮を迎えたと思われる場面(媼が翁にひそひそと話し、それを翁がめでたいと喜ぶ)があったり、成人の儀礼として屋敷に集まった男の人たちが蚊帳の中にいて見えない姫を値踏みしていたり、また高貴な位の人が来ると知って翁が「夜伽の準備を」といった旨の発言をしていたりといった場面です。

このように「かぐや姫の物語」では、はっきりとではないものの一抹の嫌悪感を残しつつ過ぎていきます。そしてだからこそ、御門にいきなり後ろから抱き寄せられたときの姫の嫌悪感が際立って伝わってきます。

この感覚は、現代の女性にも共通して感じ取ることのあるのではないでしょうか。勝手に行われた成人の儀礼や、望まない結婚が幸せの極みであるような言われ方をしている事などに対する、何とも言えない嫌悪感が繊細に描かれているのです。

幸せの在り方について

5人の公を追い払ったその後、媼や次女の女童を連れ立って花見に出かける場面があります。その花のきれいさに目を奪われていた姫は、直後たまたま子どもとぶつかってしまうのですが、その家族が平伏して謝罪する姿を見て衝撃を受けます。またさらに間が悪いことに、帰り道で盗みの疑いで追われている捨丸と偶然顔を合わせ、さらにその捨丸が暴力による制裁を受けるところを目撃してしまいます。

姫はこの窮屈な生活を強いられ、またあくまで「結婚相手」としての価値を押し付けられることに対して嫌悪感がありました。ですが、市井には素敵な絹の着物を着て、優雅に花見をすることもできない人がいるのです。また仮にですが、もし自分が捨丸と同じ立場のまま成長していた場合、捨丸と同じような目に合わない保証はどこにもないのです。

自分が不幸と思っていることが、違った見方をしたときに、ありていに言えば他人にとっては不幸ではないことも多々あります。これは何も平安時代を舞台とした「かぐや姫の物語」の中だけのことではなく、むしろ現実世界においても非常に考えさせられるテーマです。

また、更には無理難題をふっかけた公の一人が無理をして亡くなってしまったことで、姫はさらに自分を責め、悲嘆してしまいます。姫は地上での人生において、大いに悩み、苦しむのです。

かぐや姫の叫び

こうして見ると姫は地上に降りてきたことで、様々な苦しみを負い、また大いに悩んでいたことが分かります。それはきっと月の人からすれば罪を償うための「罰」であり、月の人の意図通りであったと言えるでしょう。実際に御門に抱き寄せられた際には「もう帰りたい」と強く思ってしまうほどにです。

しかしそれと同時に、姫は翁と媼に「帰りたくない」と泣きながら強く訴えます。これはどちらが正しいというのではなく、様々な思いの上で悩み苦しむ人間だからこそ抱える矛盾であり、何もおかしいことはないのです。

「さあ穢れを落としましょう」と、地上での記憶を忘れてしまうという羽衣をかけられるまさに直前、姫は声を荒げてこう言います。「穢れてなんかないわ。みんな彩に満ちて…」例え苦しみ、悩みといった罪や穢れを背負うとしても、人として生きることがなんと彩に満ちているか。高畑監督の想いが込められていると言えるでしょう。

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かぐや姫の物語の罪と罰の内容や高畑勲が込めた想いの考察まとめ!

いかがでしたでしょうか。高畑勲監督の「かぐや姫の物語」のあらすじ、キャッチコピーでも非常に有名な「罪と罰」についての考察、そして高畑勲監督がこの映画にどんなメッセージをこめていたのかをご紹介してまいりました。

もちろん「かぐや姫の物語」の舞台はあくまでも千年以上昔の話です。しかしそこで扱っていたテーマや姫がずっと悩み続けてきたたくさんの苦しみは、現代においても非常に通じるところがあります。この映画を見て何かしらもやっと感じるところがあるとすれば、それはまさしくこの現代での悩みや苦しみを肌で感じ取ったということでしょう。

月の世界は悩みも苦しみもない清浄な世界です。一方で地上は草木が生い茂り、喜びにあふれていますが、悲しいことやつらいこともたくさんあります。そんな悲しみや苦しみも、そして喜びも含めて、「生きている」ことをこの「かぐや姫の物語」は、そして高畑勲監督は、伝えてくれているのです。

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