2018年08月17日公開
2018年08月17日更新
ゲド戦記の原作とジブリ版の違いは?テル―の正体や裏設定などまとめ
みなさんは、映画「ゲド戦記」に原作があることはご存知でしょうか?スタジオジブリ作品の中でもストーリーが難解だと言われる映画「ゲド戦記」には、実は外伝も含めて6作品からなる原作があります。ここではジブリ版「ゲド戦記」と原作との違いや、時間の限られている映画本編の中では語られなかった原作での裏設定、そして重要な登場人物であるテルーの正体などについてご紹介していきます。
ゲド戦記の原作とジブリ版の違いを徹底調査!
2006年に公開された宮崎吾朗監督のスタジオジブリ作品「ゲド戦記」。宮崎駿監督の息子さんが監督を務めたことや多くの有名人が声優に起用されたことで話題になった作品ですが、原作が全6巻あり、全てを映画本編の中で語りきれなかったために細かい設定が伝わらず内容がわかりにくいとの感想も多く賛否両論のあった映画です。そこで今回はジブリ版「ゲド戦記」と原作の違いをご紹介していきます。
ゲド戦記の原作とジブリ版の違いとは?
ジブリ版ゲド戦記のあらすじ
世界の均衡が崩れてしまった、魔法の存在する世界アースシーが舞台です。均衡が崩れてしまった影響で人と住む世界を分けていたはずの竜が人間の住む世界で共食いを始め、干ばつや疫病が発生し、街を麻薬の売人が練り歩く。そんな世界で心の闇に囚われてしまったアレンは国王である父親を殺してしまい国から逃走します。その途中に世界の均衡が崩れた原因を探している大賢人ハイタカと出会い、共に旅をすることになります。
アレンは道中でハイタカの旧知の仲であるテナー、そして親に虐待され捨てられていたところをテナーに救出されたテルーと生活を共にします。「命を大切にしないやつは嫌いだ」とテルーに拒否され戸惑うアレンですが、4人で生活をしていくうちに少しずつ心の調子を取り戻したかのように見えました。しかしアレンは自分に付きまとう影に怯え次第に心が闇に包まれていき、テナーの家を出て行ってしまいます。
ハイタカは世界の均衡を崩している原因が魔法使いのクモであることに気づきますが、調査をしている最中にクモの部下にテナーが捕らわれて連れ去られてしまいます。1人残されたテルーは、テナーとテナーを救出する途中で捕らわれたしまったハイタカを救出するために、行方不明のアレンを探しに向かいます。
テナーはアレンを発見しテナーとハイタカの救出に行こうと話しますが、アレンは心の闇に支配されており動くことができません。そんなアレンにテルーがかけた一言でアレンは心の光を取り戻し、2人はテナーとハイタカの救出に向かいます。
ゲド戦記の原作小説
映画「ゲド戦記」は、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンの同名小説『ゲド戦記』の全6巻のうち、第3巻「さいはての島へ」を原作のベースとしています。太古の言葉の力によって魔法を使うことのできるアースシーという世界を舞台とし、ここでは自分の通り名とは別に「真(まこと)の名」が存在します。真の名を知る者はその者を操る事ができるため、人々はそれを他人に知られぬように普段は通り名を使用して生活しています。
原作の主人公が違う
ジブリ版「ゲド戦記」ではアレンを中心にストーリーが進んでいきますが、原作小説『ゲド戦記』はハイタカを主人公としています。ハイタカの真(まこと)の名はゲド、つまり作品のタイトルに使われている通りハイタカの少年期から青年期を描いた小説です。
ハイタカは才能に満ち溢れた血気盛んな少年で、自らを過信してしまったがために禁断の術を使い影を呼び出してしまいます。その影に追い回され追い詰められていくハイタカですが、師の進言により影を受け入れることにより影を克服していきます。
アレンとハイタカの出会い方の違い
ジブリ版「ゲド戦記」では国王である父を殺してしまったアレンが自国から逃走している道中でハイタカと出会い共に旅をしていきますが、原作『ゲド戦記』では世界での異変をハイタカに伝え知恵を借りてくるよう国王に命じられたアレンが、ハイタカに会いに行くことから物語が始まっていくという違いがあります。各地で異変が起きていることを既に耳にしていたハイタカは、アレンと共に世界の均衡が崩れている原因を探る旅に出ます。
アレンが父親を殺すという表現
ジブリ版「ゲド戦記」では冒頭でアレンが国王である父親を衝動的に刺し殺してしまいます。これは原作『ゲド戦記』にはなく映画オリジナルのシナリオです。世界の均衡が崩れ、大規模な干ばつが発生したりハジアという麻薬の売人が存在したり人の売買が横行するといった異変が次々と起こる中で、その災いの力がアレンの精神にも影響を及ぼしていたのです。
テルーの設定の違い
ジブリ版「ゲド戦記」でのヒロインである、顔に火傷の跡がある少女テルー。親からの虐待を受け殺されかけていたところをテナーに救われたテルーは、ジブリ版「ゲド戦記」では顔の左半分に火傷の跡があります。しかし原作『ゲド戦記』では右半身に重度の火傷を負い、また、炎によって喉も焼き潰れてしまっておりジブリ版の中で登場するようなテルーの唄は歌うことができないという違いがあります。
影の意味の違い
ジブリ版「ゲド戦記」でドッペルゲンガーのようにアレンを追い回していた影。その正体はアレンの心の中の光でした。ハイタカに復讐を狙うクモにより切り離されてしまったアレンの心の光は肉体を探し彷徨う影になり、光を失った肉体は次第に心の闇に囚われてていってしまいます。しかし助けに来たテルーのある一言により、アレンの心には光がもどります。
原作『ゲド戦記』では影は恐怖、不安、憎しみや傲慢さといった心の闇のことを指し、ジブリ版「ゲド戦記」の影とは意味が全くの真逆になっています。少年期のハイタカはライバルよりも自分の方が優れていると思い、その過信が結果的に影に付きまとわれる原因となります。しかしハイタカは光と影が生と死のように一体である事に気づき、影を受け入れていきます。
ゲド戦記のテルーの正体とは?
テルーの本当の名前は?
ハイタカに復讐しようと目論むクモによって捕らわれてしまったテナーとハイタカを探しに向かったテルーは、その途中でアレンの影(アレンの心の中の光)に出会います。そこでアレンの影に剣を託されたテルーは、アレンの真(まこと)の名レバンネンをアレンの影から受け取ります。テルーはアレンの救出に向かい彼を見つけ出しますが、アレンは心の闇に覆われておりハイタカとテナーの救出は自分にはできないと深くうなだれたまま動けません。
そんなアレンにテルーは、死ぬことがわかっているから命は大事でその命は1人ではなく周りの誰かと支えあって成り立っている。レバンネン、そうやって命は続いていくんだと伝えます。その言葉に心の光を取り戻したアレンに、テルーは自分の真(まこと)の名はテハヌーであると伝えます。そして2人は力強く手を繋ぎ、テナーとハイタカの救出に向かいます。
テルーの正体は竜!
テルーによって心の光を取り戻したアレンはテルーと共に、クモに捕らわれたハイタカとテナーの救出に向かいます。しかしクモと塔の上で対峙し戦う中でアレンは足場を失い絶体絶命の状況になってしまいます。そこへ追い討ちをかけるようにクモはテルーの首を絞め、テルーは意識を失います。しかし死んだかと思われたテナーが急に起き上がり目を見開いたかと思うと、突然黒く大きな竜へと変身を遂げ口から出した炎でクモを倒します。
テルーの本当の正体は竜族の末裔だったのです。ジブリ版「ゲド戦記」では冒頭で国王に仕えていた老魔法使いが「昔は人間と竜はひとつであった」と話していたり、キャッチコピーにも同様の表現が見られます。また原作『ゲド戦記』にも竜族の一部が人間になることを選んだということが描かれています。
ジブリ版「ゲド戦記」ではその後、竜から人間の姿に戻ったテルーが、国に戻って国王である父を殺してしまった罪を償うと決意したアレンといつか再会する約束をしたところで、物語はエンドロールを迎えます。
ゲド戦記の知られざる裏設定を紹介
ハイタカの顔の傷はいつからある?
ハイタカの顔の傷は、魔法の学院にいた少年期に負ったものです。生まれつき相手の真(まこと)の名を見抜く能力があったハイタカは学院でもその優秀な魔法力で皆に一目置かれる存在でしたが、学院でのライバルであったヒスイに自分の力がいかに優れているかを見せつけるために死者の霊を呼び出そうとし一緒に影も呼び出してしまいます。この時の戦いでハイタカは頬に重傷を負い、それが跡となって残ってしまっているのです。
ハイタカとテナーとの出会いは?
2人の出会いはテナーの少女時代にさかのぼります。テナーは幼い頃に両親のもとから連れ去られ、カルカド帝国という国にあるアチュアン神殿の地下墓所で一生を捧げる大巫女に祀り上げられました。名前を奪われ世界の全ては墓所の中だけであったテナーは、世界の均衡を保つためにある腕輪の欠片を探していたハイタカに出会います。
ハイタカに一生この墓所の中にいるか外の世界に出るかを問われたテナーはハイタカと共に墓所を抜け出すことを選び、外の世界を知ることになります。これは原作『ゲド戦記』にしかないエピソードですが、ジブリ版「ゲド戦記」でテナーがアレンに「私を光の中に連れ出してくれたんだわ。たった1人で暗いアチュアンの墓所から」とハイタカとの話をする描写があります。
ゲド戦記の原作とジブリ版の違いまとめ
原作『ゲド戦記』では主人公がハイタカであり、アレンが父親を殺すという表現も出てこないため2人の出会い方もジブリ版とは違うものになっています。テルーの火傷のも少しだけ柔らかい表現がなされており、影の意味も原作『ゲド戦記』とジブリ版では全く真逆の表現をされています。原作『ゲド戦記』を知ると、わかりづらかったジブリ版「ゲド戦記」の違った面が浮き上がり、より一層楽しむことができるでしょう。