ゲド戦記のあらすじをネタバレ!アレンの行動や原作との違いを考察

2006年に公開された宮崎吾郎監督によって撮影されたゲド戦記。今回は映画・ゲド戦記のあらすじをネタバレを交えて紹介致します。映画版ゲド戦記の主人公であるアレンの行動の意味やアーシュラ・K・ル=グウィン原作のゲド戦記との違いも交えて考察をしていきます。あらすじとネタバレをするのは映画版ゲド戦記と原作のゲド戦記の違いこそ其々の表現の核になるという推測と考察がなりたつからです。

ゲド戦記のあらすじをネタバレ!アレンの行動や原作との違いを考察のイメージ

目次

  1. ゲド戦記のあらすじをネタバレ!原作との違いについても考察!
  2. ゲド戦記とは?
  3. ゲド戦記のあらすじをネタバレ!
  4. ゲド戦記のラストをネタバレ!
  5. ゲド戦記の原作小説との違いとは?
  6. ゲド戦記の謎をネタバレ考察!
  7. ゲド戦記のあらすじネタバレまとめ!

ゲド戦記のあらすじをネタバレ!原作との違いについても考察!

今回は宮﨑吾朗監督作品、ゲド戦記をあらすじとネタバレやアーシュラ・K・ル=グウィンによる原作ゲド戦記との違い交えて考察をします。それは原作との違いにこそアニメーション映画・ゲド戦記の本質が存在するのと同時に、宮﨑吾朗監督の作家性が垣間見えてくるはずだからです。現代の魔法使い譚の元祖でもあるゲド戦記の魅力を少しでも感じて頂ければ幸いです。

ゲド戦記とは?

ゲド戦記は2006年7月29日に夏休みに合わせて公開された日本のアニメーション映画です。日本のアニメーション映画の中でも、ジブリ映画は特にジャパニメーションとも呼ばれています。その名称には、日本独自に進化をしてきた日本のアニメーションに敬意があるのと同時に、日本のアニメーションを特別に蔑視する時にも用いられる表現になります。

ゲド戦記の監督は宮﨑吾朗監督!

ゲド戦記の宮﨑吾朗監督は、日本のアニメーション作家の巨匠であり、屈指の存在でもある宮﨑駿の長男です。ゲド戦記が監督第1作目ということでもあり、また宮﨑駿監督の息子ということから、観客などの周囲の期待値が高かったことからも、ゲド戦記の評価は低すぎる向きがあります。説明描写に乏しくアニメーションにしては子供向けに作られていないことが難解に捉えられたのかも知れません。

ゲド戦記の評価は賛否両論!

その結果、ゲド戦記の評価は一部の映画好きや映画マニアからは高評価を得ることが出来ましたが、実際見た観客からは評価が低かったのが実情です。宮﨑駿監督は「ハウルの動く城」を製作していたため、ゲド戦記を自身では製作できませんでした。ちなみに「ハウルの動く城」とゲド戦記は海外の女流作家の作品であり、どちらも魔法使いが登場します。

ゲド戦記とハウルの動く城について

ゲド戦記と「ハウルの動く城」の違いは、其々少年と少女と主人公の性別が違うところです。ゲド戦記の場合は、ゲドとアレンの二人の旅を描いていますが、「ハウルの動く城」ではハウルとソフィーとの戦火の恋を描いています。前者からは修道僧的なニュアンス(敢えて書くと「薔薇の名前」のような)が漂っていますが、後者からは戦争から逃げ続ける男と愛する女性の反ヘミングウェイ的なファンタジックなストーリーが展開します。

ジブリ映画の主人公について

ジブリ作品の主人公たちは、映画版ゲド戦記のアレンのように苦悩の中で生きているキャラクターは少ないです。逆にヒロインたちの方が、自分の才能や生い立ちに対して苦悩をしています。映画版アレンが父殺しの苦悩の人生を歩んでいる点において、「風の谷のナウシカ」のナウシカ姫が怒りに駆られて、剣を振るった後、その自分の姿に恐怖するシーンにダブります。

ゲド戦記のユニークな所はアレンが弱者であるところです。その部分がこの映画の文学性であり、その後の反成長的なニュアンスが日本の少年漫画的にはならないのです。この弱々しさこそ、宮﨑吾朗が庵野秀明のように日本のジャパニメーションにおける、少年の父殺しをテーマにした作家であることの証明です。また父殺しの理由が明確ではないことも、それがこの映画において重要なテーマを提示していることによります。

日本における父殺しは、いまだ理解されない表現になっています。母と息子の関係では「楢山節考」のように関係性を官能的に捉えている人もいます。人間における影がゲド戦記の大きなテーマになっているのと同等に、何故アレンが父を殺さなければならなかったのか、を影やのように精神分析的でありながら、畑仕事などの生産性に結び付けて解決を求めているのも、ジャパニメーションが原作であるゲド戦記から得られた収穫でしょう。

ゲド戦記のメディアの評価について

ゲド戦記は第63回ヴェネツィア国際映画祭に特別招待作品として上映されました。現地での評判は最低ランクであり、ジャパニメーションの礎を作ったスタジオジブリに対する評価を著しく下げる結果となりました。イタリアの「ウニタ」紙のダリオ・ゾンダは「平板なスタイル、創造性に欠けた絵で、それはリアリズムの上に成り立つファンタジーに供する想像を生み出すことを放棄している。」と厳しい批評がされています。

さらに「fantasymagazin」のキャッスルロック.itでは「アニメーションはスムーズであり、緻密なキャラクターデザインは行われているけれども、吾郎の映画は父親の映画における創造性と物語性の芸術の高みには達してはいない。」と評価がされています。やはり偉大過ぎる父親と比べられると宮﨑吾朗監督の作品は一段劣ると評価せざるを得ないのでしょうか。

さらに国内の多くの映画批評家も、吾朗版ゲド戦記には厳しい評価を下しました。そうして2006年度における最低映画である、という評価を国内の映画評論雑誌5誌から受けてしまったのです。さらに週刊誌「ぴあ」や「週刊文春」からも酷評されていて、まさに踏んだり蹴ったりという状況でした。

興行に関しては、低すぎる評価に対して2006年邦画興行収入の1位を記録しています。また第30回日本アカデミー賞優秀アニメーション賞を受賞している以外は、第3回文春きいちご賞第1位、第3回蛇いちご賞作品賞、映画芸術2006年ワーストテン第1位等、海外におけるラズベリー賞を受賞しまくりの状況でした。

さらに2008年に地上波で初放送した時、当時のジブリ映画の視聴率は基本的には20~30%台と非常に高いものだったそうですが、吾朗版ゲド戦記は16.4%と低調だったことから、いかにジブリ作品としては期待外れだったのかが分かります。ちなみにこの視聴率はゲド戦記の放送日の先週に放映された「となりのトトロ」よりも低かったそうです。

原作者アーシュラ・K・ル=グウィンのコメント

また、原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンは試写会に参加した後、宮﨑吾朗雄監督に映画の感想を聴かれたそうです。するとアーシュラ・K・ル=グウィンは「これは私の本ではない。吾朗の映画だ。」と答えたそうです。この時の発言に関して、監督が自分のブログでアーシュラ・K・ル=グウィンに対して無断で紹介したことやアーシュラ・K・ル=グウィンの日本人のファンからのメールを貰ったそうです。

また、アーシュラ・K・ル=グウィンは映画に対して、父である宮﨑駿監督の「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」のような繊細さや豊穣さが感じられない、としています。また物語におけるキャラクターの行動と整合性の矛盾を指摘して、自身の原作であるゲド戦記の持つメッセージ性が説教じみた内容に変わってしまっていると、示唆をしています。

さらにもともと原作にはないアレン王子が父親を殺すエピソードも「王子の行動が気まぐれであり、動機が明確ではない。人間の影は魔法の剣で振り払えるような容易いものではない。」と宮﨑吾朗の映画とその作家性に対して違和感を表明していました。た易いかどうかは別として、確かに王子の行動には何処か、一貫性がない暴力性が存在するように見えます。

押井守のコメント

唯一、日本のジャパニメーション映画の天才と呼ばれている押井守だけが「初監督でこれだけのものが普通の人に作れるだろうか?」と周囲の評価が低すぎるとして合格点を与えています。さらに宮﨑吾朗監督に「次の作品で本当の父殺しの映画をつくること」を勧めました。本当の父殺しとは父・宮﨑駿監督の作品を超える作品をつくることを指すのでしょう。本当に殺すわけではありません。念のため。

テルーの唄が萩原朔太郎のこころに似すぎていた件

挿入歌である「テルーの唄」が萩原朔太郎の「こころ」に似すぎている、と詩人である荒川洋治が批判しています。作家の三田誠広も「盗作ではない。」としながらも「モラルの問題」であるとし、謝辞をするべき、としていたそうです。結果として鈴木敏夫プロデューサーは「表記について思慮不足だった。」旨を述べて、謝罪して、表記を変更したそうです。

評価の解説!しかしこの問題ともいえない問題は、もともと表現における本歌取りやオマージュとして捉えられるものです。ただ記述漏れにすぎず、何故これ程までに批評が強烈だったのか、疑問に感じる人もいるかもしれませんが、宮崎吾郎監督の作品自体が父親の二番煎じではないか、とどこかで誰もが感じていたからでしょう。なのでこのこと自体が初監督作品であるという気概から生まれた単なるミスでしかないと考えられます。

映画ゲド戦記の元ネタはシュナの旅?

考察と解説です!もともとゲド戦記に登場するキャラクターたちは絵物語「シュナの旅」がイメージのもとになっています。「シュナの旅」とは宮﨑駿が徳間書店が出版していたアニメージュ文庫から出したファンタジー絵物語です。その内容は全ページ、カラーによって構成されています。文庫としては、かなり豪華な装丁です。初版年月日は1983年になり、翌年「風の谷のナウシカ」が上映されています。

考察と解説です。「シュナの旅」の主人公は、谷の底の小さな王国の王子です。この点でもゲド戦記のアレン王子との共通点が見えてきます。そもそも「シュナの旅」はチベット民話の「犬になった王子」がもとになって作られていて、原作は岩波文庫から出版されています。吾朗版ゲド戦記はアーシュラ・K・ル=グウィンのゲド戦記と「シュナの旅」さらに「犬になった王子」が元になっているのです。

犬になった王子とシュナの旅のあらすじとネタバレ

あらすじの解説!「犬になった王子」は穀物の無い国に住む心の優しい王子の冒険の旅を描いた作品です。王子が旅に出る理由は麦のタネを手に入れる為です。王子は、その途中で美しく思いやりのある娘、ゴマンの愛によって救済されて、幾多の苦難の旅を乗り越えるのです。「シュナの旅」のシュナも同様に、神々の麦を手に入れる為、旅に出ます。しかし、旅の経験から人間らしさを一切失ってしまうのです。

あらすじの解説!そんなシュナを看病することになるのが、かつてシュナが助けた唖の妹とテアでした。シュナはテアの献身的で手厚い看病を受けて、自我と人間らしさを取り戻すのです。そうしてシュナとテアは共に、神々の麦を携えて、自身の生まれ故郷への帰還を果たすのです。

ゲド戦記はシュナの旅と犬になった王子から強い影響を受けている

考察と解説!「犬になった王子」と「シュナの旅」のプロットには共通点があります。主人公が苛烈な経験によって人間らしさを失ってしまう部分と、奴隷商人に捕まって売り飛ばされそうになってしまう部分です。ゲド戦記もこの二つの物語に強い影響を受けています。また「シュナの旅」のイメージがゲド戦記のイメージと重なる部分があります。

考察と解説!もともと宮﨑吾朗監督は「シュナの旅」の映像化を望んでいたそうですが、父親でもある宮﨑駿は頑として首を縦に振りませんでした。その為、「シュナの旅」へのオマージュも込めて、ゲド戦記が作られたそうです。映像化されていなかったゲド戦記をアニメ化する際に、父親の絵物語「シュナの旅」のイメージが宮﨑吾朗監督の中に一つのタネとして育っていたのでしょう。

シュナの旅には宮﨑駿監督作品のイメージが詰まっている

考察の解説!このように「シュナの旅」は「犬になった王子」と基本的には同じような物語構成をしていますが、そのキャラクター造形自体は宮﨑駿独自のものとして捉えられます。この絵物語は「もののけ姫」の物語の始まりの原点にもなっており、アシタカがナゴの守から呪いを受けてシシ神の力で呪いを説こうとする物語構造と同等になっています。

考察の解説!「風の谷のナウシカ」の持つ谷の国という世界観や動物などの設定、また同時期に作られたせいか色合いやキャラクター造形も非常に似通っています。また「シュナの旅」には「ヤックル」という角を持った「シュナの旅」独自の動物が登場するのですが、それと似たような「ミノノハシ」という動物も「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」、「天空の城ラピュタ」に登場します。

【仮説】宮﨑駿の世界は一つの歴史によって成り立っている

仮説の考察と解説!このことから、「シュナの旅」から「もののけ姫」までは同一の世界観によって成り立ち、一つの世界として成り立っている可能性が考えられます。それはこれらの物語が一つの星の歴史を描いている歴史絵巻なのではないかという可能性です。そこで推測を行います。例えば「もののけ姫」が日本で言えば中世時代ごろの日本を指すとすれば、大体1330年代ぐらいから1570年代くらいということになります。

仮説の解説!「風の谷のナウシカ」は産業文明が発達した後、1000年後の人類社会が滅亡して、さらに1000年余り経過した時代が舞台とされています。ここでの産業文明とは近代文明を指すと考えられます。つまり環境に配慮すべき文明が発達した後の1000年後ですから、現代史に擬えると2000+1000=3000年、さらに+1000年なので西暦4000年が「風の谷のナウシカ」の舞台になりそうです。

仮説の解説!「もののけ姫」の多々良文化によって鉄が作れるようになった中世時代の後、現実の日本は徳川時代に入り、鎖国をしてしまうのですが、宮崎駿監督作品には今のところ武士を職業とするサラリーマン武士(いわゆる徳川幕府中の武士)は登場しません。士農工商時代の日本は、思想的にはインドの支配階級に近く、その階級に生まれたら一生その階級から逃れることは出来ませんでした。

仮説の解説!徳川時代は職業選択という人間にとって重要な自由の一つが奪われた時代でした。「風立ちぬ」でさえ、堀越二郎は自身の夢を追って、飛行機の設計を行っています。徳川時代には自由はなく、命を懸けることにしか意味がない時代だったのです。

物語の自由

仮説の解説!宮﨑駿は物語において自由を求めていました。それは自分の中にある地球と同等なくらい大きな物語を外側に出す必要があったからです。しかし宮﨑吾朗にとって一つの個人的妄想によって支配する父親を殺すことこそ、生きる道だったのです。アレン王子が父親を殺すこと自体には意味がなく、だからこそ必然性が生じているのです。

ゲド戦記のあらすじをネタバレ!

この章では映画版ゲド戦記のあらすじとネタバレをしたいと考えています。実際原作とは違うアレンの父殺しというショッキングな始まりから、ゲド戦記が明らかにアーシュラ・K・ル=グウィンのゲド戦記の世界を借りて、自らの作家性を表現していることが分かります。

ゲド戦記のあらすじ!アレン王子はこころを闇に捕らわれる

エンラッド国に王子であったアレンは自分の中にあるこころの闇を抱えていました。そうして段々それに喰われるようになり、遂にアレン王子の父親である国王を殺してしまいます。殺した途端正気に戻ったアレンは恐怖に襲われて、父の所持品である魔法の剣を持って逃亡します。その途中、ハイタカと名乗る魔法使いに出会うのです。

世界の異変

アレンとハイタカがホート・タウンに着くと、こころを狂わせる薬や人買いが横行している街の様子をアレンは目の当たりにしてショックを受けます。そこでアレンは人さらいをしているウサギに襲われていた少女を助けます。しかし夜にはウサギたちに夜襲を受けて、アレンと少女は共に奴隷にされそうにになり、そこをハイタカに助けられるのです。

ゲド戦記のあらすじ!テナーとの生活

こうして、ハイタカと同行することになったアレンはハイタカの昔馴染みの場所を訪ねることになりました。そこはテナーという女性が住んでいました。そうして、アレンが前日に助けた少女もいたのです。そこで二人は初めて少女の名前を知ります。名前はテルー。両親に捨てられたテルーはテナーに引き取られて生活をしていたのです。アレンとハイタカは暫くの間、テナーと家でテルーと共に生活をするようになりました。

ゲド戦記のあらすじ!魔法使いクモ

テナーの家で生活を続けるうちに、ハイタカの留守にウサギがやってきました。テナーを誘拐したウサギからテルーは「女を返してほしければ、クモの城にくるように。」とハイタカに伝えるよう命令をされます。同時期にアレンもクモに攫われてしまったのです。テルーからおおよその事情を聴いたハイタカは、クモの城に赴きます。しかしハイタカは、そこで魔力を奪われてしまい幽閉されてしまうのです。

ゲド戦記のあらすじ!テルーの覚悟

そこでテルーはハイタカの剣を持って、クモの城に潜り込むことになります。アレンの元にたどり着いたテルーは、クモによって生気を失っていたアレンを説得します。テルーの言葉によってアレンはこころの闇から抜け出すことが出来、ハイタカとテナーを助ける為、クモと戦うことになるのです。

ゲド戦記のラストをネタバレ!

この章では、吾朗版ゲド戦記のラストをネタバレを含めてお伝えいたします。ゲド戦記には人買いや魔法使いクモとの戦いがありますが、それは観客にカタルシスを与えるものとはなっていません。その事も含めて書かせていただきます。

ゲド戦記のネタバレ!魔法使いクモとの闘い

クモの魔力によって、アレンたちは殺されそうになってしまいます。そうして魔法使いクモとの闘いの中、テルーは殺されてしまいます。テルーの死を知って、愕然とするアレン。その瞬間、クモを呼び止める声がします。なんと、死んだはずのテルーはドラゴンに変身をしてアレンの前に現れるのです。そうしてドラゴンの炎によって、クモは息絶えるのです。

ゲド戦記のネタバレ!魔法使いクモの死

魔法使いクモの死によって、戦いは終結を迎えました。しかしクモは永遠の命を求める為、生の世界と死の世界を繋げてしまい、世界の均衡は崩れてしまっていました。クモの死によって、世界は少しずつ均衡を取り戻そうとしています。アースシーの世界に少しずつ平穏な風が吹いてきている時、アレンは自分の犯した罪を償うため、王国に帰国することを決意します。そうしてハイタカと共に新たな旅に出るのです。

ハイタカの冒険について

ハイタカの旅についての考察

ゲド戦記を見ていくうちに、ハイタカ=ゲドは意外と活躍していないことが分かります。原作のゲド戦記は、かつて天才とも呼ばれた魔法使いでしたが、影との闘いによって魔法の力はほぼ失ってしました。その力を失った後も、ゲドの旅は終わらなかったのは、アースシーの世界自体が終わりを迎えないのならば、ゲドの旅にも終らないからです。

そうして、旅の途中でハイタカ(ゲド)は父殺しという罪を犯したアレンと出会います。この物語はもし、宮﨑吾朗が自身の物語の中で、宮﨑駿はという父を殺し、そうしてもう一度出会う物語なのではないでしょうか。アレンにとって、自身が殺した父とハイタカは、同じように父であるのです。つまり父が分裂して多重構造化しているのが吾朗版ゲド戦記の世界なのです。

ゲド戦記のアレンの父殺しとドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟についての考察

考察と解説です!父殺しと言えばはやり、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でしょう。しかしこの物語には父を殺すだけのある種合理的な物語が兄弟間に存在するミステリ小説とも読める内容になっています。一方、吾朗版ゲド戦記のアレン王子による父殺しは、こころの闇という至極厄介なものが、一人の若者の一生を左右する以上の何か不気味なものを私たち観客に提示しています。

ゲド戦記のアレンの父殺しとシェイクスピアのハムレットとの関係性の考察

考察と解説です!ハムレットも父殺しの亜種としての物語であり、アレンの持つ父殺しの物語と近い部分があります。ハムレットは叔父を殺すのですが、それは叔父が父親を殺害して、母親を奪ったからです。このことから、ハムレットは叔父に復讐をします。ハムレットは復讐譚ですが、アレンの父殺しは支配階級への反抗になっています。反抗であり、暴力にまで直結しているのが、吾朗版ゲド戦記の特徴です。

アレンの父殺しはレジスタンスとしての暴力だった

考察と解説です!父殺しを謀った後(その際、父親は殺しても殺さなくてもどちらでもよく、殺そうとする意志があることが重要なのです)、奴隷にされそうになっているテルーを助けています。暴力に晒されている存在に対して、暴力を持って対抗しようとする姿こそアレンであり、アレンの持つ暴力への意志は、ニーチェにおける力への意志(労働力)とは違うベクトルを持っています。それは明らかに正義への意志なのです。

アレンの父殺しについての解説

考察と解説です!ただアレンは実際に国王である父を殺してしまったため、正義側ではなく、暴力側つまり悪と同等のベクトルを持つようになってしまいます。彼はテナーの家で畑を耕し、労働に殉じます。この姿が唯一原作者、アーシュラ・K・ル=グウィンの認めるものになっているのは、自分の暴力を唯一生命を維持する方向へと繋げているからです。それは全く自分のレジスタンスの為ではなく、完全なる他者の為の労働なのです。

ハイタカとアレンの関係についての考察

他者のための労働こそ、持たざる者の持つ唯一の力であり特権になります。吾朗版ゲド戦記はアーシュラ・K・ル=グウィンの思想と重ならないのは、アレンの現実としての暴力であり、その影や容易には拭い去れないのです。ゲドでさえ、自らの魔法力の殆どを失ってしまったのですから。ただ唯一対処の仕方を知っているのが、ゲドだったのです。

アレンの物語はゲドの物語であり、ゲドは年老いていますが、アレンはまだ若いのです。これからアレンは罪を償うことになりますが、影は果たして拭い去るときはくるのでしょうか。ここには原罪の狭間の世界で揺れ動くアレンという一個の病んだ魂の揺れ動きが感じられます。

ゲド戦記の原作小説との違いとは?

ゲド戦記の原作はアーシュラ・K・ル=グウィンのファンタジー長編小説によります。ゲドと影の戦いを描いた前編と、魔法使いとしての能力を失った後のゲドの戦いを描いた後編からなります。

ゲド戦記の原作小説は世界的に有名な長編小説

ゲド戦記は1968年から2001年まで続いたアーシュラ・K・ル=グウィンのファンタジー小説です。もともと戦記と訳されていますが、実際の主題はゲドの戦いではなく、アースシーという物語世界におけるゲドの行動や洗濯が主題となっています。アースシーとは地球と海を繋ぎ合わせた造語です。

またゲド戦記は全米図書賞児童文学部門、ネビュラ賞長編小説部門、ニューベリー賞を受賞しています。後者の二つはサイエンスフィクションの賞として著名なものです。また英語圏のファンタジーの古典として「指輪物語(1937年~1949年)」や「オズの魔法使い(1900年)」とも並び称されています。

マーガレット・アトウッドはゲド戦記を「ハリー・ポッター」シリーズや「氷と炎の唄(ゲーム・オブ・スローンズ)」のような流行している幻想小説に強い影響を与えた作品として、ゲド戦記の1巻目である影との戦いを挙げています。

原作の主人公はハイタカ?

ゲド戦記の主人公はハイタカです。決してアレンではありません。ゲド=ハイタカなのです。アースシーの魔法使いは真実の名前を持っている為、むやみやたらに本当の名前を他人に伝えることはありません。その結果ゲド、が真実の名前でありハイタカが通り名ということになるのです。この真実の名前はルーン文字つまり神聖文字によって表記されます。この名を他人に伝えることは容易に操られてしまうことを指すのです。

ゲド戦記の謎をネタバレ考察!

ここでゲド戦記における謎をネタバレを交えながら考察をしていきます。まずはアレンが何故父親を殺害したのか、について、それからハイタカの傷はいつ生まれたのか。についてです。

アレンはなぜ父親を殺したのか?

アレンは何故父親を殺害したのでしょうか。この部分はゲド戦記の本編に存在しない記述の為、分かりません。宮﨑吾朗監督の作家性が父親である国王を殺させたのではないか、と考えられますが、実際宮﨑吾朗監督が父親を殺す、もしくは乗り越えるため、何故父親自体を殺さなければならないのか、分かりません。何故なら殺人は現実の世界において罪だからです。

作家性における(つまり観念性における殺人)とは捉えがたいのは、現在宮﨑吾朗監督は父親である宮﨑駿監督を殺害していないからです。ゲド戦記という物語を借りて物語の中で父親を殺した、とも言えます。これは借り物だからこそ、そこに何故か父親殺しを挿入したはずです。

そもそもゲド戦記の映画化は宮﨑駿監督の悲願でした。「風の谷のナウシカ」を映画化するまえから、オファーをしていたが、原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンはアニメとはディズニーのようなもの、と許可を下ろしませんでした。しかし2003年に「ゲド戦記」の全訳を終えた清水眞砂子が原作者であるアーシュラ・K・ル=グウィンと面会した時です。

「となりのトトロ」などの宮﨑作品に対して「ジブリの作品は私の作品の方向性と同じ」であり、とても気に入っていると述べたそうです。そうして「原作者として私の作品の映画化を任せられるのは宮﨑駿だけ」であると発言したそうです。しかし当時宮﨑駿は「ハウルの動く城」を製作中であり、鈴木敏夫プロデューサーと話をして息子の宮﨑吾朗に監督を充てたそうです。

ハイタカの顏の傷はいつ生まれたのか?

ハイタカの傷についての考察と解説

ハイタカには顔に傷がありますが、この傷はいつできたのでしょうか。私たちはハイタカもアレンと同じように影と戦った人物であることを知りません。ハイタカはかつて影と戦いました。そのとき魔法力の全てを失ってしまっています。映画版ゲド戦記では、魔法使いクモとの闘いのなか、魔法力を奪われてしまいます。そうしてその時に顔の傷を負っているのです。つまりハイタカの顔の傷は自身の魔法力を失った結果生じたものなのです。

考察と解説です!傷は実際にこころの傷を現します。影(シャドウ)はその暴力によって傷ついて受け入れがたいこころの傷を具現化してその実体(個人)を脅す存在として、成り立ちます。ゲドにも影がつきまとい、次第に追い詰められていきます。しかしゲドが影から逃れることをやめ、正面から向き合う時、影自体がゲドの一部であることをゲドは知り、全き人にゲドはなったのです。

考察と解説です!吾朗版ゲド戦記は、宮﨑吾朗監督の一種の自己精神分析であり、それが物語の中で昇華されようとしています。クモがアレンの心の実体を分裂させることにナンセンスさがあるのは、物語がゲド戦記において既に真理として成り立っているのにも関わらず、あえて遠回りをしているからです。そうしてまた心の光が自分のもとに戻ってくる、ということはそれまで実体は影であることが分かります。

考察と解説です!影がた易く、分かれ、また自分に戻るという紆余曲折の不分明こそ、ゲド戦記という物語の汎用性を見た結果でありながら、精神分析の要素を取り入れることで歪みが生じてしまっています。果たして吾朗版ゲド戦記における影はどの様な役割を果たしたのか。それは暴力の肯定です。その暴力は、妄想的物語に対するレジスタンスであり、抑圧への抵抗だったのです。

ゲド戦記のあらすじネタバレまとめ!

今回はゲド戦記のあらすじとネタバレをまとめました。原作者であるアーシュラ・K・ル=グウィンと宮﨑駿は同じ妄想と狂気の国の住人のだったようですが、宮﨑吾朗はその世界を成り立たせようとするため、一種のレジスタンスを行う抑圧された人だったようです。父殺しはそんな孝行息子によるひと時の夢だったのかもしれません。

吾朗版ゲド戦記は評価は散々でしたが容易に理解出来ないからこそ、ユニークな作品です。機会があれば是非ともご覧ください。アーシュラ・K・ル=グウィンが描いた世界に少しでも触れる機会が持てるのと同時に、ジブリ映画の世界への興味も深まります。

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