2018年10月16日公開
2018年10月16日更新
センゴクのモデル・仙石秀久とはどんな武将?漫画のあらすじもネタバレ紹介
『センゴク』は、宮下英樹さんの漫画作品で2004年から講談社刊『週刊ヤングマガジン』で掲載されています。連載14年目となる2018年8月現在の累計発行部数は累計900万部となる人気作品です。『センゴク』の主人公である仙石秀久が合戦に明け暮れる日々の中で戦国時代の英傑達の下で失敗と挽回を繰り返しながら成長していく姿を描いた漫画作品となっています。今回は『センゴク』のモデル・仙石秀久とはどんな武将?漫画のあらすじ・ネタバレも交えながら紹介していきたいと思います。
目次
センゴクのモデル・仙石秀久とはどんな武将?漫画のあらすじもネタバレ紹介!
『センゴク』は主人公である仙石秀久が、合戦に明け暮れる日々の中で戦国時代の英傑達の下で失敗と挽回を繰り返しながら成長していく姿を描いた漫画作品となっています。今回は、『センゴク』の原作者・出版社・基本情報・モデルの仙石秀久はどんな武将?・漫画のあらすじ・ネタバレも交えて紹介していきます。
センゴクとは?
『センゴク』とは宮下英樹さんの漫画作品で、講談社刊『週刊ヤングマガジン』に2004年4月から2007年10月まで掲載され全15巻発売されております。第2部『センゴク天正記』(全15巻)、第3部『センゴク一党記』(全15巻)として連載されました。2015年11月より第4部最終章『センゴク権兵衛』(既刊12巻2018年8月現在)が連載スタートし現在も連載中です。
2007年2月より、番外編も連載されており『センゴク外伝桶狭間戦記』(全5巻)が連載されました。連載14年目を迎えた2018年8月時点の累計発行部数は900万部を越える人気作品です。
センゴクの漫画あらすじをネタバレ紹介
『センゴク』とは、戦国史上最も失敗し挽回した男、美濃出身の武将仙石秀久を主人公とした漫画です。斎藤家の家臣であった仙石秀久は、稲葉山城の戦いで織田信長の捕らえられます。部下として織田家中に迎え入れられた仙石秀久は合戦に明け暮れる過酷な日々を過ごします。
信長・秀吉・家康ら戦国時代の英傑たちの下で、失敗と挽回を繰り返して成長していきます。第1部『センゴク』・第2部『センゴク天正記』・第3部『センゴク一統記』・第4部『センゴク権兵衛』のあらすじをネタバレ紹介していきます。
第1部『センゴク』あらすじをネタバレ紹介
美濃・斎藤家家臣の仙石秀久(15)は美濃を征服した尾張国主である織田信長に見出され、信長の家臣である木下藤吉郎の寄騎となります。勢力を広げる織田家に危機感を持った諸大名の信長包囲網の中、仙石秀久は幾多の戦いを乗り越えてきます。織田信長・木下藤吉郎との出会いから1574年の小谷城の戦いで浅井家が滅亡するまでが描かれています。
第2部『センゴク天正記』あらすじをネタバレ紹介
小谷城攻略の功績により、大名に出世した秀吉と共に仙石秀久も一千石の領地を預かる領主になります。家臣団を組織する立場となり一指揮官としての成長を迫られながら、未だ続く信長包囲網を戦います。1574年の長島一向一揆から甲州征伐による武田家滅亡までが描かれています。
第3部『センゴク一統記』あらすじをネタバレ紹介
1582年中国遠征を続ける秀吉の備中攻めから始まります。天下統一を目前とした織田家は、本能寺の変により衰退の一途を辿ります。一つの時代が、終焉を迎え新たな時代の幕開けとなります。1582年中国遠征から始まり小牧・長久手の戦いまでが描かれます。
第4部『センゴク権兵衛』あらすじをネタバレ紹介
1584年の九州から始まります。沖田畷の戦いにより龍造寺の衰退がはじまります。島津家は九州統一まであと一歩のところまで迫っていました。淡路の大名になった仙石秀久は、長曾我部の抑えの役割をはたしていました。
『センゴク』のモデル仙石秀久はどんな武将?
漫画『センゴク』のモデルで主人公である仙石秀久は、どのようの人物・武将だったのでしょうか。ここでは、漫画『センゴク』の主人公仙石秀久ではなく実在した仙石秀久に注目します。
仙石秀久の生い立ち
仙石秀久は、斎藤道三に仕える美濃の豪族・仙石久盛(仙谷治兵衛久盛)の四男として1552年1月26日に加茂郡黒岩(加茂郡坂祝町)に生まれます。仙石秀久は、四男であったことから他家に養子に出ることとなり叔母の夫で越前に住む萩原国満の養子になります。ところが、兄が相次いで亡くなったことから、仙石家に戻ることにいなり家督を継ぎ斎藤龍興に仕えます。
織田信長・木下藤吉郎との出会い
美濃に織田信長が、侵攻してくると1564年頃に仙石秀久は織田家に寝返ります。織田信長は、当時14歳の仙石秀久をたいへん気に入り木下藤吉郎(豊臣秀吉)の寄騎を命じます。このころの木下藤吉郎の配下は、蜂須賀小六(蜂須賀正勝)といった野武士や半農民がほとんどです。
木下藤吉郎にとっては、大変貴重な由緒ある武士を初めて家臣に加えることになります。仙谷秀久は豊臣秀吉の最古参の家臣とされ、羽柴秀吉の出世と共に仙石秀久も出世することになります。
仙石秀久の正室・側室・子供の人数 功績
仙石秀久の正室は、羽柴家の家臣で美濃出身の黄母衣衆でもある野々村幸成の娘・本陽院(野々村正成の姪)側室には甲斐から来た浪人・竹村新兵衛の娘・慶衆院を迎えて合計10男6女を儲けています。
1570年の姉川の戦いに参戦していますが、竹中半兵衛が羽柴秀吉の家臣に加わるまでは、仙石秀久が参謀・軍師のような働きも行っていたようです。姉川の戦いでは、自らが槍を持って戦い浅井長政の家臣である山崎新平を討ち取る活躍をしています。
羽柴秀吉の中国への進軍の際にも参陣し功績を上げます。1578年に荒木村重を説得するために有岡城にむかった黒田官兵衛が音信不通となった際に、小寺政織と同調し離反したとされ黒田官兵衛の残党を仙石秀久が引き受けて面倒をみています。播州平定戦では、父である後藤基国が別所長治に付いたことから居場所を失った後藤又兵衛(後藤基次)も仙石秀久が引き受けています。
1579年には、神戸の茶臼山城主(上津城主)となり、有馬温泉を統括する湯山奉行になります。1581年には、黒田官兵衛(黒田孝高)らの助けもあり、淡路島に渡ると岩屋城・由良城を落とし淡路島の国権をゆだねられます。1582年6月に明智光秀による謀反、本能寺の変で織田信長が死去すると仙石秀久は、淡路島で決起した菅達長ら豪族を討伐し淡路島の平定に貢献する活躍をします。
1583年、引田城に長曾我部勢の香川信景らの襲撃を受けます。仙谷秀久は、伏兵で迎え撃ちますが、兵力に勝る香川信景らに攻め込まれ、更に駆けつけた長曾我部勢の援軍により、引田城から敗走し淡路島に撤退します。四国勢との戦の間に、賤ケ丘の戦いにて柴田勝家に勝利した羽柴秀吉より淡路平定の功績が認められます。
大分から香川へ逃走?
1586年、豊臣秀吉の九州攻めが始まり、十河存保や長曾我部元親・長曾我部信親らの軍艦として先陣する仙谷秀久ですが、府内城に入ったのは総勢6000程度で織田信長の時代より争ってきた仇敵同士であり結束できていなかったようです。豊臣秀吉は、仙谷秀久に豊臣本隊が到着するまでは、待つよう命じていましたが、府内城が島津家久と島津義弘に挟撃される恐れがあり仙石秀久の独断で戸次川を渡り進軍を試みます。
1586年、戸次川の戦いになります。この戦いで、長曾我部信親と十河存保の両名が討ち死にし長曾我部元親は参加することなく伊予へ敗走し万策尽きた大友義統も豊前に逃走します。
この事態を招いた仙谷秀久は、小倉城へ撤退し残存兵を置いて家臣20名と大分県から香川県まで勝手に逃走します。このことから豊臣秀吉は、激怒し『三国一の臆病者』と呼ばれ所領は没収され高野山へ蟄居(チッキョ・武士または公家に対する刑罰・自宅や一定の場所に閉じ込め謹慎させること)になります。
仙石秀久の復活
このような大失態を起こせば、普通であればこのまま人生を終えると思いますが、仙石秀久は、只者ではなかったのでしょう1590年の小田原征伐に3男の仙石忠政と共に美濃で旧臣20名を集め豊臣軍に帰参します。その際に徳川家康に仲介をしてもらい徳川勢に陣借りをしています。
ここで功績をあげた仙石秀久は、豊臣秀吉に前の大失態を許され小諸城主として大名に復活することになります。戦国史上最も失敗し挽回した男の誕生の瞬間です。
仙石秀久の後任で、九州征伐の軍艦となった尾藤知宜は、失態を犯し改易(カイエキ・身分を平民に落とし家禄(カロク)・屋敷を没収するもの・蟄居より重い罰)されていましたが、小田原征伐での復帰を懇願するも豊臣秀吉の怒りを買い斬殺されています。仙石秀久にとって徳川家康の存在は、非常に大きかったものと思われます。
『センゴク』のモデル・仙石秀久についてまとめ
漫画『センゴク』と仙石秀久についてネタバレあらすじや実際どのような人物だったのかを紹介してきました。数々の功績を上げ出世してきた仙石秀久ですが、大きな失敗を犯し『三国一の臆病者』と呼ばれ蟄居されても諦めない戦国史上最も失敗し挽回した男でした。この記事を読んで、漫画『センゴク』・仙石秀久に興味を持った方は是非一度、漫画『センゴク』を読んでみてはいかがでしょうか。