【コクリコ坂から】カルチェラタンとはどんな建物?モデルや名前の由来・意味は?

1980年少女漫画雑誌「なかよし」にて連載された、佐山哲郎原作・高橋千鶴作画による漫画作品「コクリコ坂から」。後に宮崎吾朗監督によるアニメ映画が制作されました。ところで、「コクリコ坂から」に登場する印象的な建造物「カルチェラタン」とはどんな建物なのでしょうか?この記事では、カルチェラタンのモデルとなった全国の建物の概要や所在場所を紹介するとともに、名前の由来や意味について作品の時代背景を絡めて詳しく解説していきます。

【コクリコ坂から】カルチェラタンとはどんな建物?モデルや名前の由来・意味は?のイメージ

目次

  1. コクリコ坂からのカルチェラタンとはどんな建物?
  2. コクリコ坂からのカルチェラタンの実在モデルの建物と場所
  3. コクリコ坂からのカルチェラタンの部活や名前の由来・意味
  4. コクリコ坂からの映画と原作の時代背景
  5. コクリコ坂からのカルチェラタンに関する感想や評価
  6. コクリコ坂からのカルチェラタンまとめ

コクリコ坂からのカルチェラタンとはどんな建物?

コクリコ坂からの作品情報

「コクリコ坂から」に登場するあまり聞き慣れないカルチェラタンとはどんな建物なのでしょうか?この記事ではコクリコ坂からのカルチェラタンを特集していきますが、まずはコクリコ坂からの作品情報からお届けします。最初に作品概要、そして簡単なあらすじへと続きます。

コクリコ坂からの概要

「コクリコ坂から」とは、原作:佐山哲郎・作画:高橋千鶴による漫画作品で、またそれを原作とするスタジオジブリ制作によるアニメ映画作品でもあります。ちなみに「コクリコ」とはフランス語でケシ科の花であるヒナゲシ(Coquelicot)を意味しています。

漫画作品「コクリコ坂から」は、講談社の月刊少女漫画雑誌「なかよし」にて1980年1月号から8月号まで連載されました(全8話)。そしてアニメ映画「コクリコ坂から」は、時代設定やストーリー、そして主要キャラを原作漫画から大きく変更した上で、2011年7月に劇場公開されています。監督は「ゲド戦記」に続きアニメ映画2作目となる宮崎吾朗、脚本は宮崎駿と丹羽圭子が担当しました。

コクリコ坂からのあらすじ

1963年初夏の横浜。港の見える丘に建つ下宿「コクリコ荘」では、16歳の少女・松崎海が宿を1人で切り盛りしています。彼女が通う高校では、最近ちょっとした騒動が起きていました。老朽化の進んだ文化部の部室棟・カルチェラタンを取り壊すべきかそれとも保存すべきかという学内を二分する論争です。歴史が刻まれた建物を守ろうと訴える風間俊。彼の主張に共鳴した海は、建物の良さを知ってもらおうと大掃除を提案します。

カルチェラタンとは?

ここからは、この記事のメインテーマである「カルチェラタン」の話題に移っていきます。そもそも「コクリコ坂から」のカルチェラタンとはどのようなものなのでしょうか?

あらすじの項で触れたようにコクリコ坂からのカルチェラタンとは、海の通う港南学園の男子文化部の部室棟の別称で、正式名称は「清涼荘」と言います。カルチェラタンは、明治末期に建てられた築100年を優に超える建築物で、第二次大戦直後まで旧制中学の寮として使われてきました。

カルチェラタンの入口を入ると、右手にはいまだに各階毎に部屋の名札がかけられており伝統を感じさせると言われています。現在では文化系の部室棟となっており、俊がチーフを務める学生新聞「週刊カルチェラタン」を発行する新聞部もこのカルチェラタン内にあります。

コクリコ坂から - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI

コクリコ坂からのカルチェラタンの実在モデルの建物と場所

神奈川県にある「外交官の家」

モダンで美しい洋館「カルチェラタン」。日本全国にはこのカルチェラタンのモデルでは?と噂される建物がいくつも存在しています。次に、カルチェラタンのモデルとされる建物の名称と所在場所を一覧で紹介していきます。

最初に紹介するカルチェラタンのモデルと言われている建物は、神奈川県横浜市にある「外交官の家」です。この建物は、1910年、明治政府の外交官・内田定槌の邸宅として、東京都渋谷区南平台町に建築されました。

「外交官の家」は、1997年国の重要文化財に指定された後、内田定槌の孫から横浜市に寄贈され、現在の所在場所「横浜市中区山手町16山手イタリア山庭園内」に移設されています。

神奈川県にある「山手資料館」

コクリコ坂からのカルチェラタンのモデルとなった建築物、2つ目は神奈川県にある「山手資料館」です。所在場所は「横浜市中区山手町247(山手十番館庭内)」。

山手資料館は、横浜市内では唯一無二とされる和洋折衷の木造洋館で1909年に建てられました。館内にはチャールズ・ワーグマンのポンチ絵などの作品や建設当時から関東大震災まで横浜に関する資料が多数展示されています。

東京都にある「三鷹の森ジブリ美術館」

次に紹介するカルチェラタンのモデルとなった建築物は、東京都にある「三鷹の森ジブリ美術館」です。コクリコ坂からの監督・宮崎吾朗は、「ジブリ美術館と疑洋風建築を組み合わせて具体化していった」と語っています。所在場所は「東京都三鷹市下連雀1丁目1番83号」となります。

山形県にある「旧西田川郡役所」

山形県にある「旧西田川郡役所」もまたコクリコ坂からのカルチェラタンのモデルと言われています。「旧西田川郡役所」は、1878年に初代県令(現在に知事)となった三島通庸が建設した擬洋風建築で、所在場所は「山形県鶴岡市家中新町10-18 (致道博物館内)」。現在は歴史展示館として活用されています。

長野県にある「信州大学農学部中原寮」

最後に紹介するカルチェラタンのモデルとなった建物は、長野県にある「信州大学農学部中原寮」。こちらの所在場所は、「上伊那郡南箕輪村8304」となります。ただし、こちらは建築物そのものがカルチェラタンのモデルになっているのではなく、アニメ制作にあたってそこで生活する学生たちの様子を参考にしたとのことです。

コクリコ坂からのカルチェラタンの部活や名前の由来・意味

カルチェラタンで活動している部活

ここからは「コクリコ坂から」のカルチェラタンで活動する部活動の内容やカルチェラタンの名前の由来・意味について解説していきます。その前に、まずはカルチェラタンで活動している部活にはどんなものがあるのか見ていきましょう。

コクリコ坂からの舞台となっている1963年とは、東京オリンピック開催の前年であり、これから日本が高度経済成長を果たそうとしていた時期になります。また、60年安保で盛り上がりを見せた学生運動が華やかなりし時代でもありました。

政治的な色彩の濃い学生運動だけでなく、主人公・海が通う港南学園ではカルチェラタンを拠点に様々な部活動が行われていました。俊がチーフを務める週刊カルチェラタン編集部をはじめ、哲学研究会、古典音楽研究会、科学研究会、現代詩研究会など枚挙にいとまがない程です。

カルチェラタンの名前の由来・意味

あまり聞き慣れない言葉・カルチェラタンですが、フランスの首都パリのセーヌ川左岸の地名が名前の由来となっています。名前の由来となったパリのカルチェラタン(Quartier latin)のカルチェとは、フランス語で「地区」を意味し、ラタンは「ラテン語」という意味です。直訳するとカルチェラタンの意味は「ラテン語の地区」ですが、転じてラテン語で話をする教養ある学生が集まっている街という意味で使われます。

また、言葉の由来となった本家本元のパリのカルチェラタンは、学生運動が活発に行われていた場所として有名です。1968年5月に起きた五月革命では、この場所に集結した学生たちが主導して大規模なゼネストを決行しました。

一方、コクリコ坂からでは、学生たちがカルチェラタン取り壊しの反対運動を企てます。コクリコ坂からのカルチェラタンも、その名前の由来となったパリのカルチェラタンも学生運動の拠点として登場します。学生運動を象徴する場所としてカルチェラタンという地名が採用され、名前の由来となっているのではでしょうか?

コクリコ坂からの映画と原作の時代背景

漫画作品を原作としてアニメ映画が制作された「コクリコ坂から」。両者で大きく違うのは時代背景です。原作漫画が1970年代なのに対し、アニメ映画では東京オリンピックが開催された前年の1963年となっています。アニメ作品ではなぜ時代設定を変更したのでしょうか?ここからは、アニメ映画と原作漫画の時代背景の詳細説明となぜ違いが生まれたのかについて考察していきます。

コクリコ坂からの映画の時代背景

まず、アニメ映画「コクリコ坂から」の時代背景からです。1963年と言えば、真っ先に思いつくのは最初の東京オリンピック開催の前年であり、東京オリンピックを契機に整備されたインフラをベースに日本は高度経済成長を遂げていくことになります。

1963年という時代を知るために、この年に日本で起きた出来事を挙げてみます。有名な「吉展ちゃん誘拐殺人事件」が発生しています。当時は身代金目当ての子供誘拐事件が後を絶ちませんでした。そのほか、黒部ダムが完成したり初の高速道路である「名神高速道路」が開通したのもこの年になります。海外ではアメリカの現役大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件が起きました。

また、手塚治虫のテレビアニメ「鉄腕アトム」の放送が開始されたのも1963年ですし、流行歌では三波春夫の「東京五輪音頭」や梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」、坂本九の「見上げてごらん夜の星を」が発売され大ヒットを記録しました。特に「見上げてごらん夜の星を」はアニメ「コクリコ坂から」主題歌の有力候補として名前が挙がっていましたが、プロデューサーの強い意向が働いて同じ坂本九の「上を向いて歩こう」になったそうです。

話をコクリコ坂からに戻しますと、アニメ「コクリコ坂から」のメインテーマの1つとなっている風間俊の出生の問題は、1963年という時代背景が深く関わっていると言われています。高校3年生である俊は18歳ですから、1945年生まれになります。つまり、太平洋戦争終結の年に生まれたことになります。

終戦直後の廃墟と化した日本のあちらこちらでは、親を戦争で亡くした多数の子供たちが必死で生きていました。彼らは雨風を凌ぐために、公園のベンチや橋の下で寝泊まりしていたといいます。宮城まり子のヒット曲「ガード下の靴磨き」にあるように、生きるために靴磨きをする幼い子も大勢いました。

飢えや病気で命を落とすことも多かった「戦争孤児」は、当時の社会問題となっていました。俊もまた戦争孤児の1人でしたが、早くに子供を亡くした風間明雄により運良く養子に迎えられます。また、主人公の海も船乗りだった父が朝鮮戦争で日本海に撒かれた機雷により死亡しています。海と俊、2人の運命もまた戦争によって翻弄されていたのです。

コクリコ坂からの原作の時代背景

時系列という観点から、1963年という設定のアニメ映画から解説しましたが、続いては原作漫画の時代背景を探っていきます。

原作漫画「コクリコ坂から」は1970年代の高校が舞台となっています。今から半世紀ほど前の1970年代とはどのような時代だったのでしょうか?60年安保闘争を経て、学生運動は1970年代には隆盛期を迎えたと言われています。高度経済成長の真っ只中にあって、まだまだ多くの社会問題を抱えていた時代だったのです。

学生運動は、もともと学問の自由を求めた学生が時の政府への抗議として起こしたと言われています。ところが、’70年代になると反戦運動など政治的色彩が濃くなっていきます。ちなみに当時の流行歌に「戦争を知らない子供たち」という楽曲があり、学生など若者の反戦運動の象徴として知られています。

そうした当時の時代背景を反映して、原作・コクリコ坂からには現代ではあまり馴染みのない学生運動が登場します。制服の自由化を求める生徒たちが決起するのです。この運動を通じて海と俊は接近していくのですが、2人の関係の変化に呼応するように学生運動も激化。遂には主張の実現を求めて、全校生による授業ボイコットに発展します。

ところが、決起集会の最中、生徒たちの思いを踏みにじるかのように授業が再開されます。権力を前に無力な自分たちの現実を目の当たりにして、生徒たちの情熱は次第に冷めていきます。そしてボイコット運動は自然消滅を迎えました。

コクリコ坂からのカルチェラタンに関する感想や評価

ここまでアニメ映画「コクリコ坂から」のカルチェラタン特集をお届けしてきましたが、最後にTwitterよりカルチェラタンに関する感想や評価を紹介します。

最初に紹介する感想・評価は、コクリコ坂からのカルチェラタンの魅力について語るツイートからです。カオス(混沌)だけど同時に纏まりがあり、見ていて気持ちが高揚するそうです。

続いて紹介する感想・評価は、コクリコ坂からの良い点と悪い点を挙げているツイートからです。良い点としてはアニメの優れた描写力を挙げ、カルチェラタンの雰囲気やそこで活動する学生が生き生きと描かれていることを称賛していました。

最後に紹介する感想・評価は、横浜市民としてコクリコ坂からは見逃せない映画だというツイートからです。特に和洋折衷の建物・カルチェラタンには横浜の魅力が凝縮されているとのことです。

コクリコ坂からのカルチェラタンまとめ

ここまで「コクリコ坂からのカルチェラタンとはどんな建物?」と題して、モデルとなった建造物の場所などの紹介やカルチェラタンの由来・意味などについて解説してきました。いかがでしたでしょうか?

宮崎吾朗監督のコメントにもあるように、カルチェラタンは上に紹介したいずれかの建物の一つがモデルになっているというわけではありません。ジブリ美術館の内装と、いくつもの西洋風の館のイメージをミックスしてカルチェラタンが生まれた建物ということです。

またカルチェラタンの由来ですが、フランスの首都パリのセーヌ川左岸の地名から採っているようです。パリのカルチェラタンは、学生運動が活発に行われていたいわゆる学生運動のメッカとして有名です。そして言葉の意味は直訳すると「ラテン語の地区」ですが、知識階級の言語であるラテン語で話す教養ある学生が集う場所という意味で使われます。港南学園の文化部の目指す姿としてこの言葉が選ばれたのかも知れません。

関連するまとめ

新着一覧

最近公開されたまとめ